初代・神武天皇から現在までに、女帝は8人10代で、江戸時代に117代・後桜町天皇が譲位したあと約250年も女性天皇は即位していない。(後桜町の前は109代・明正天皇)
しかし古代には、嫡流を嗣ぐ者がいない場合や、正当な皇位継承者が成長する間の中継ぎとして、6人8代の女性天皇が即位していた。
古代の女性天皇についてまとめる。
>> 幻の初の女性天皇「飯豊天皇」
古代の女性天皇(大王)は飛鳥時代から奈良時代に掛けて即位しているが、その多くは男性継承者が育つまでの中継ぎとしての側面があった。
平安時代には安徳天皇(男)のような幼くして天皇に即位する事が増えていき、女性天皇は歴史とともにその姿を消していった。
古代の中国では、儒教道徳にもとづく男系による家の継承がなされていた。
皇帝も貴族の家の家長も、男性でなければ務まらないと考えられてきたのである。
日本の皇室をめぐる諸制度も、古代の中国法にならって定められたものであった。
飛鳥時代末期の701年(大宝元年)に定められた『大宝律令』の規定が、朝廷で重んじられ続けてきたためである。
現在の「天皇」「皇后」「皇太子」などの称号も、『大宝律令』のもののままである。
それゆえ日本では、長期にわたり「皇位は男子で継承するもの」という通念がとられてきた。
21世紀にはいってから、女性皇族でも皇位を嗣げるとする「女性(女系)天皇論」が議論されるようになってきた。
ただ、女性天皇そのものは存在していなかったわけではなく、古代の日本では男女の区別について柔軟な考えがとられていた。
そのために33代・推古天皇などの、女性天皇が即位していた。
ただし、系統としては、一貫して男系であった。(系譜上は)
弥生時代には、一つの小国や一つの豪族の指導者が男性とは限らなかった。
男女に役割があり、男性は政治や外交、女性は祭祀を担当する場合が多かった。
夫婦もしくは兄妹、姉弟にあたる男女二人が一組で指導者を務めたのである。
『魏志倭人伝』にみえる女王卑弥呼と、卑弥呼の補佐役の男弟も、その一例といえる。
『日本書紀』などから、古い時代のヤマト政権で、大王と“王家の巫女”から成る一組の男女が政治を動かしていた様子が窺える。
10代・崇神天皇には倭迹迹日百襲姫命、11代・垂仁天皇と12代・景行天皇のときには倭姫命という補佐役がいた。(姫とあるので両者とも女性)
しかし、4世紀末に15代・応神天皇の専制が確立したあと、政治に関与する巫女はみられなくなった。
これとは別に、何代にもわたって大王の后を出す特別の一族(王族の家)があった。
神功皇后系の実家になぞらえられた彦坐王の系統や、26代・継体天皇を出した稚野毛二派皇子の子孫などがその例になる。
応神天皇の后も、垂仁天皇の皇子の五百城入彦皇子の子にあたる品陀真若王の娘であった。
特定の王子の子孫にあたる王族の他に、葛城氏、春日氏、蘇我氏などの外戚氏族もみられた。
有力な王族や外戚氏族の娘は、后になれば大王を補佐して政治にあたった。
推古天皇は、確かな記録にある男性の補佐役ではない確実な女性の大王である。
しかし推古より前に、24代・仁賢天皇の姉の飯豊皇女が中継ぎの大王を務めた可能性もある。
皇室の伝承にもとづいたとみられる『扶桑略記』(11世紀末ごろ編纂)は、彼女のことを「飯豊天皇」と記している。
それよりも古い時代にも、大王の職務を代行した女性がいたかもしれない。
推古天皇は、蘇我氏が政権を握った時代に大王になった。
推古は欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛の間の子で、名を炊屋姫(カシキヤヒメ)といった。
姫は異母兄にあたる30代・敏達天皇の正妻となる。
この敏達天皇の没後に天皇の適当な王子がいなかった。
蘇我稲目の子の蘇我馬子は、敏達天皇と炊屋姫の間の竹田皇子を立てようとしたが、皇子はまだ若い。
そこで馬子は、竹田皇子が成長するまでの中継ぎとして、用明天皇ついで崇峻天皇を立てた。
しかし崇峻天皇が馬子と対立して討たれたことによって、炊屋姫を大王にせざるを得なくなった。
このとき用明天皇の子で、博学で知られる聖徳太子(厩戸皇子)が大王の補佐役に起用された。
このあと馬子と聖徳太子は、意欲的に内政を改革し、中国に遣使。
その間に竹田皇子が没し、聖徳太子が推古天皇の後嗣ぎとされた。
しかし推古天皇が生きているうちに、太子は病没し、推古天皇の没後に蘇我氏とつながりのない舒明天皇が立つ。
古代の日本では、推古天皇のほかに5人の女帝がみられた。
その中の2人は、2度にわたって王位に就く。
推古を含めて、古代には6人8代の女性天皇がいたという事である。
(推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙・称徳天皇)
平安時代に幼帝が即位するようになると、女帝はあらわれなくなった。
幼くして天皇になっても、摂政関白やら上皇やらが代わりに政務を執れた為、中継ぎの女性天皇を無理に即位させる必要がなくなっていった。
つまり、皇位継承が不安定な時期にだけ女帝が現れたのだ。
飛鳥〜奈良時代の女帝の即位を見ると、大王家(皇室)に適当な男性がいない場合に、頻繁に女帝が即位している。
古代の女帝の即位には、二つのタイプがみられた。
一つは王家(皇室)の嫡流を嗣ぐ者として、女性が一人しか残っていない場合。
そしてもう一つは、正当な王位(皇位)継承者が成長するまでの中継ぎとして女帝が立てられる時だった。
大王家(皇室)の嫡流と庶流とが厳密に区別されていたことが、女帝の出現をもたらした。
大王家は大王家の守り神である天皇霊の守護を受けることを、支配者たる根拠としていた。
大王家の祖先神は、当初は三輪山(桜井市)の神である大物主神であった。
しかし、6世紀はじめに、王家の祖先は天照大神に代えられた。
大王家は天皇霊が守る、より血筋の良い王族を大王に立てるために、血族結婚を繰り返した。
それと共に何代にもわたって妃を出す特定の王家も重んじられた。
応神天皇に始まる系統は、25代・武烈天皇で途絶えた。
そのため継体天皇が、24代・仁賢天皇の娘の手白香皇女に婿入りする形で王家を継承した。
大王家の嫡流は、継体天皇から欽明天皇を経て敏達天皇に受け嗣がれた。
それに続いて推古天皇を中継ぎに、竹田皇子が立つはずだった。
ところが竹田皇子も聖徳太子も、大王になる前に亡くなってしまう。
そのため敏達天皇の孫で、王族の母をもつ舒明天皇が嫡流を嗣いで即位した。
この舒明天皇の没後に、嫡流の中大兄皇子への中継ぎとして、中大兄の母の35代・皇極天皇が立った。
このあと乙巳の変で中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼす。
この穢れで、皇子を大王にするのが憚られたために、36代・孝徳天皇が立った。
そして孝徳天皇の没後に、皇極天皇が斉明天皇として重祚した。
斉明天皇の没後しばらくして、ようやく嫡流の天智天皇(中大兄皇子)の即位が実現する。
しかし天智天皇に、血筋が良い母から生まれた王子がいなかった。
そのため才智あふれる天智天皇の娘の鶴野讃良皇女(ウノノサララ皇女:41代・持統天皇)が、嫡流の継承者として扱われた。
そして天智天皇の没後の壬申の乱(672年)のあと、鷓野皇女の婿の資格で天武天皇が大王になった。
この天武天皇は、天皇号と日本の国号を採用したことで知られる。
今までの推古天皇らは厳密には「推古大王」や「皇極大王」であったが、天武以降は正式に「天皇」となった。
だから、3人目の女帝は「持統大王」ではなく、はれて「持統天皇」となったのだ。
この時代に鶴野皇女は皇后として、天皇と並んで国政にあたっていた。
彼女の指導のもとに、唐風化政策が進められた。
そして彼女の皇子の草壁皇子と、皇子の異母弟の大津皇子の皇位を競う動きの中で、鶴野皇女の称制(君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が即位せずに政務を執ること)がなされる。
さらに草壁皇子が亡くなったために、鶴野皇女が持統天皇となった。
持統天皇は、草壁皇子の子の(持統の孫の)軽皇子に皇位を受けつがせるために即位した。
しかし持統天皇は単なる中継ぎではなく嫡系の天皇として扱われた。
そのため彼女は天照大神の継承者を意味する「高天原広野姫」の諡を称した。
持統天皇の孫が文武天皇(軽皇子)となったが、文武天皇は早く亡くなってしまう。
そこで文武天皇の子の首皇子の成長まで、43代・元明天皇と44代・元正天皇という二代の中継ぎの女帝が立った。
元明天皇は、平城京への遷都や、和同開珎という銅銭の発行を行っている。
首皇子が即位して聖武天皇となったが、聖武も血筋の良い皇子に恵まれなかった。
そのため天皇の娘が嫡系を嗣ぐ46代・孝謙天皇とされた。
孝謙天皇は藤原仲麻呂の勧めで一旦は淳仁天皇に皇位を譲ったが、政治の実権を握り仏教興隆策をすすめる。
天皇に反発する仲麻呂が反乱を起こして敗れると、孝謙上皇は重祚して48代・称徳天皇となった。
彼女は僧道鏡を重用し、一旦は皇位を譲ろうとした。
しかし彼女の崩御と共に、古代・女性天皇の時代は終わった。