古代出雲大社

古代出雲大社の巨大神殿

現在の出雲大社の本殿は国宝であり、高さは24メートルに及ぶ荘厳さを兼ね備えた建築物だ。
しかし、江戸時代以前の出雲大社は、高さ「十六丈」、実に48メートルに及んだという。
古代出雲大社の実像に迫ってみる。

日本一の高層建築物だった?

出雲大社は、かねてから複数の史料にその高さを伺わせる記述が散見している事が指摘されていた。
例えば、延長5年(927)に制定された『延喜式』において、全国の神社の中で「大社」の格を与えられたのは、出雲大社だけだった(当時は杵築大社)。
また、平安時代中期の歌人・源為憲は、幼児向けの教養書「口遊(くちずさみ)」の中で、当時の高い建物として、「雲太、和二、京三」と記している。
雲太は「出雲太郎」で出雲大社、和二「大和二郎」で東大寺大仏殿、京三「京の三郎」で平安京の大極殿の事である。
そして東大寺大仏殿は当時高さ「十五丈」とされている。

戦国時代の史料に“三二丈”と記される

また戦国時代の史料『杵築大社旧記御遷宮次第』には、「景行天皇の時代には三二丈の高さで、その後、十六丈となった」とある。
「三二丈」はともかくとして、十六丈の高さはある程度の現実性があるのでないかとして、明治時代に学者間で論争となった。
しかし、決め手を欠き実態は不明のまま、長らく言及される事はなかった。

境内の発掘調査

巨大な柱跡が発見される

平成11年(1999)に出雲大社の境内で発掘調査が行われ、直径1.3メートルの木材を3本組にした巨大な柱が発見された。
そして、その形状や三カ所から出土した柱の間隔から、ある図面との関係性が指摘される事になる。

古代出雲大社を描いた図

その図面は、出雲大社宮司家の千家家に長らく伝えられた『金輪御造営差図』で、古代の出雲大社を描いたモノだった。
しかし、本殿は正方形で、田の字型に配置された9本の柱は3本の材を鉄の輪で束ねて一つの柱とするなど、建築の歴史上あまりに特異なモノであった。
それゆえ、それまでは現実性のあるモノとは考えられてなかった。

実在した出雲の巨大神殿

しかし、この発掘調査により、それまで“特異”とされていた図面の記述が、考古学的な裏付けを得る事になった。
そして階段の長さは「一町」、なんと約109メートルとあり、その他の『金輪御造営差図』の記述も、現実性を帯びる事となったのである。
つまり、高さ16丈に及ぶ出雲の「古代神殿」は絵空事ではなくなったのだ。

鎌倉中期に遷宮された神殿だった

発掘調査で出土した柱には、放射性炭素による年輪年代測定法が行われた。
炭素が時間の経過とともに規則的に減少する性質を利用して、木材が切り出された時代を特定する方法である。
結果、鎌倉時代前期〜中期頃のモノと推定された。
出雲大社の国造家の所蔵文書によれば、宝治2年(1248)に遷宮が行われていて、出土した遺構はこの当時の物である可能性が高いという。

出雲大社はいつから在ったのか?

『日本書紀』にもその存在が確認される

では、出雲大社の巨大な本殿はいつ頃建てられたものなのか。
その時期は現在も特定されていないが、『日本書紀』斉明天皇5年(659)には「出雲国造に命じ神の宮を修厳」とあり、かなり古くからその存在を確認出来る。
同じく『日本書紀』の「一書」(別伝承のこと)には、「柱は高く、板は広く厚く」とあり、その巨大さも十分に想像できる。

国譲りの引き換えに?

そもそも『古事記』には、オオナムジ(オオクニヌシ)が天孫に葦原中国を譲る代償として、立派な隠棲場所を建ててくれるのを求めたとあり、この隠棲場所が出雲大社の起源とされている。
神話が何かしらの歴史的事実を反映しているとするならば、日本という国が形成され始めた初期には、既に出雲の地に巨大な神殿が建てられていた事を想像してしまう。

大昔は本当に32mあったかも?

先に触れた『杵築大社旧記御遷宮次第』にあった「景行天皇の時代には三二丈の高さ」の記述。
32丈となれば、その高さは96メートルにもなる。
当時の建築技術で、そのような高層建築物を建てる事が可能であったのかどうかは立証されていないが、古代史のロマンを感じされてくれるエピソードだ。

出雲国風土記に見る出雲大社の記述

『出雲国風土記』には「吉栗山」の木材が使用されていた事を窺わせる記述がある。
出雲大社の建立に使用された木材は、周辺地域の山林から切り出され、川を伝って運搬されていたようだ。
吉栗山は出雲市佐田町にあり、付近を流れる神戸川を下って出雲大社まで運ばれたらしい。
出雲大社の古代神殿は、研究の余地を残しながらも、その巨大さにおいて、一定の確実性が立証されたのだ。


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