日本の地図

日本と地図の歴史

地図の歴史は長いが、過去の「地図」から読み取れるものは、単にその時代の土地や建造物の状況に留まらない。
時代ごとの為政者の土地政策から、日本の政治状況、人々の行動範囲、さらには測量技術がどのように進んで来たのか、人々の空間認識はどう変わって来たかなど。
過去の地図は、「もう一つの歴史書」とも言える程に貴重な史料である。

古代の測量技術

古代の測量に関わる文書・史料は残っていない。
しかし、5世紀に作られた世界最大の墓である「大仙陵古墳」などから、当時も距離や角度を正確に測る測量技術が存在したと考えられている。

律令国家の土地管理の地図(飛鳥・奈良)

7世紀後半以降、国は律令体制の下、民に口分田を支給してそれに対して課税する班田収授制を実施。 その後、班田を整理する条里プランの整備に伴い、6年に一度の班田収授の際(もしくはその前年)に班田結果を表記する班田図(校田図)が作製された。

「国郡図」と「校班田図」

国郡図
国郡図は国・郡単位に制作され、国土の状況を把握する為に使われた小縮尺図。
地図には行政単位の国・郡・郷、官道の距離、主要集落、著名な山・川、土地の形状と広狭などが記述されている。
地図は現存はしないが、「日本後紀」の記述から少なくとも「国郡図」は実際に作成され、使用されたとみられている。
738年、諸国に「国郡図」の作製を命じると「続日本紀」に記されており、796年には先の地図が古くなった為、新たなに「諸国地図」の作製が命じられたと「日本後紀」に記されている。
校班田図
校班田図は、国ごとの班田結果を「条里プラン」によって表記した地図で、班田管理に用いられた大縮尺図だ。
条里プランとは、土地の区画を1町(約109m)の碁盤目状に区切り、番号と名称で表した土地表記のシステム。
これを班田結果と組み合わせる事で、班田を正しく管理できる「校班田図」が作製された。
条里プランは8世紀に整備され、742年に最初の班田図が作られた。

荘園図

743年の「墾田永年私財法」の施行により、永続的な土地所有が認められるようになった。
この頃から、貴族や寺院などによる荘園が生まれ、それに伴い荘園の地図(古代荘園図)も作られるようになった。
古代荘園図は、校班田図を基にした物と、国司図から作られた物の2系統が現存している。

荘園図

越前国坂井郡高串村東大寺大修多羅供分田地図
越前国坂井郡(福井県北部)にあった東大寺領荘園の図。
条里プランに基づく方格線が描かれ、区画ごとに地名や面積や書き込まれている。

行基図

江戸時代前期まで続いた日本地図の原型

鎌倉時代から江戸時代初期まで、行基作とされる簡略な日本地図が流布した。
行基図」と総称されており、仁和寺蔵の行基図は、現存する最古のモノ。
行基作とされる日本地図には、共通の特徴があり、丸みを帯びた国々が重なって日本の形を作っている。

仁和寺蔵日本図(1305年)

仁和寺蔵日本図(1305年)
南北・上下が逆さまになっており、九州部分は紛失している

行基とは

行基は668〜749年、奈良時代の高僧で、灌漑事業や架橋、道路建設などに取り組んだほか、東大寺の大仏造営の為に勧心活動も行い、大僧正に任じられた。

「行基図」は誰が作ったのか

仁和寺蔵の行基図には「行基菩薩御作」とあるが、823年に分置された加賀国が描かれている為、行基が生きた奈良時代のモノではない事になる。
東大寺再興の祖である重源が、大仏建立のときに勧進を担った行基に仮託したのではという説がある。

当時の地図の向きは不統一

仁和寺蔵の日本図だけではなく、ほぼ同じ頃とされる「称名寺蔵日本図」も、南が上となっている。
16世紀末頃の「拾芥抄」の「大日本国図」は、東西方向を上下とする縦長の地図になっている。
地図の上が北に統一されるのは江戸時代、17世紀以降だ。

拾芥抄 大日本国図

拾芥抄 大日本国図
東を上にすると、地名がキチンと読める

荘園管理の地図(平安・鎌倉・室町)

平安時代末期から室町時代に掛けては、全国を統一的に支配する強力な政治主体が存在しなかった為、中央政府による地図作製は行われなかった。 この時期に目立つのは、荘園の開発や管理の為に作製された地図だ。
また、簡略な日本図(行基図)や都市図なども、この頃には作られていた。

「領域型」と「相論型」荘園図

中世の荘園地図は、大きく二つに分けられる。
一つは荘園の全体像と示そうとした「領域型荘園図」で、もう一方は荘園の領有や所領配分などの揉め事を解決する為に作られた「相論型荘園図」だ。

絵画的表現の領域型荘園図
領域型荘園図は、荘園の開発や官への届け出、租税徴収の為の耕地や耕作者の確認などの為に作製された。
表現的には、山や川が立体的に表現された絵画的なもの、地図記号化されたもの、必要な事を強調する為に選択的な表現をしたものの3種類が存在する。
論点説明に使われた相論型荘園図
相論型荘園図は、荘園の領有、配分、所在地や境界線の位置、用水の利用など、荘園に関わる様々な争い事の際に証拠を示したり、或いは相論の結果を表したりする為に作製された。
相論対象に絞り込んだ表現もありば、領域型荘園図に近い表現のものもある。

京都・嵯峨・奈良の都市図

平安末期以降に京都や奈良などで作られたとされる都市図が現存する。
例えば、鎌倉時代に書写されたとされる「延喜式」(九条家本)には、平安京の街路や施設が記された左京図・右京図が付されている。
ただし、左京図・右京図自体は、平安時代にも存在したと考えられている。

延喜式(九條家本)

延喜式(九條家本)

13〜14世紀の世界地図にみる日本

混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)とは1402年に李氏朝鮮で作られた地図。
この地図には日本列島が描かれているが、現実とは大きくかけ離れた姿が確認されている。
当時の朝鮮半島から、日本はこう見えていたのかも知れない。

混一疆理歴代国都之図

混一疆理歴代国都之図

混一疆理歴代国都之図の日本

混一疆理歴代国都之図の日本

室町時代の地図

14世紀中頃の室町時代(南北朝時代)に描かれた、本州から九州のほぼ全域が記された日本地図だ。
日本列島全体が残った地図では最古級のもの。
近畿を中心に九州を上に描き、京都から各地へ街道が伸びている。
日本と中国との中継ぎ貿易で栄えた沖縄「琉球」も記されている。
沖縄を「龍及国」と表現する鎌倉時代の地図の特徴と、港町の地名が多く記されるなど室町時代の特徴を備え、さらに文字の書体の古さなどから14世紀中頃に描かれた地図と判断される。

日本扶桑国之図

日本扶桑国之図
地図の欄外には国名と郡名、人口や田畑の面積、寺の数なども記されている

秀吉が郡絵図を作製(安土桃山)

豊臣秀吉は1582年以降、全国的に検地を進めていった。
1590年に天下統一を達成すると、全国の大名らに検地を示した御前帳(郷帳)と郡絵図(国絵図)の提出を命じた。

秀吉の郡絵図作製の狙い

郡絵図作製の際、秀吉は大名の領地ごとではなく国郡を一単位として実施。
国郡単位での調査は古代の律令国家のやり方で、それを踏襲する事で、自らの政治的権威を正統化する狙いがあったと考えられる。

秀吉が全国で「検地」を実施
秀吉は1582年から、各領地を征服する毎に順次検地を実施した。
田畑の測量と石高の調査を行い、全国の生産力の把握に努めた。
秀吉「郡絵図」の提出を命じる
1591年に検地が終わると、秀吉は大名たちに結果を示した帳簿(御前帳)と郡絵図(国絵図と同等)を提出させた。
郡絵図には城郭、村落、町場などの集落(郷名・村名・縄高・家数)、耕地、主要な街道、水系、郡郷界などが描かれていた。

日本に世界地図がやって来る

ヨーロッパから宣教師や商人が訪れるようになった事が切っ掛けで、日本に世界地図が輸入される。
楕円状のスペースに描かれた世界地図は、「地球が球体である」事や「世界は五州から成る」事など、日本人の地理的知識に大きな影響を与えた。
この時期の代表的な世界地図は、マテオ・リッチの「坤輿万国全図」だ。

坤輿万国全図

坤輿万国全図

坤輿万国全図の日本

坤輿万国全図の日本

官民で地図が発展(江戸時代)

江戸時代は、何代もの将軍がその時々の目的達成や問題解決の為に、国絵図や日本図の作製を命じた。
一方、民間では木版による出版地図が一般に広まり、多くの人が地図に触れるようになって、その中からはベストセラーも生まれた。

出版事業の隆盛で地図が身近に

慶長年間(1596〜1615)に出版された「拾芥抄」内の「大日本国図」が、現存する最古の出版地図。
これ以降、多彩な出版地図が刊行され人々に親しまれた。
特に、石川流宣や長久保赤水などの手による地図は、版を改訂しつつ100近くに及ぶ大ヒット作となった。

江戸時代の人気観光地図 日本海山潮陸図

石川流宣は、菱川師宣の弟子で浮世絵師。
「日本海山潮陸図」では、街道、宿場、名所といった観光情報をそれまでの日本図とは比べられない程多く掲載し、実用的に使える事で人気が出た。
約100年の間、江戸を中心に多くの人に利用され、情報更新などで29回もの改版が確認されている。
江戸からの距離の表記や近隣の宿場町情報などが細かく書き込まれている。

日本海山潮陸図

日本海山潮陸図
石川流宣作/1691年

幕府の秘図 伊野忠孝の地図

1800年から1816年に掛けて日本全国の測量を行い、忠敬の死後、1821年に高橋景保によって完成せた伊能図(総称)。
実測による精密な測量が特徴で、実際の日本の地形と比べても遜色がない。
江戸時代を代表する日本地図だが、江戸末期までは幕府の官蔵に納められたままの「秘図」扱いで多くの目には触れなかった。

大日本沿海輿地全図

大日本沿海輿地全図
伊能忠敬作/1821年

富士山付近

中図・富士山付近/1804年作

忠敬の測量方法

特に目新しい方法ではなく「道線法」と呼ばれる多角測量と「交会法」を併用。
また、距離測定の基本は「歩測」で、1歩を約69pとして測定した。

忠敬が使用した量程車

忠敬が使用した量程車
道がデコボコだと誤差が出た為、実際にはあまり使われなかったという

都市図も人気に

江戸時代には、各都市の地図も多数出版された。
なかでも、京都、江戸、大坂の3都市は群を抜いて多く作製された。
また、18世紀以降は、歴史的興味の高まりから、敢えて「古い時代」を描いた都市図(歴史地図)も作られ人気を呼んだ。

京都
1626年頃の「都記」が現存する最古。
初期の地図では、町人地部分は彫り込まれなかった為、黒く残されていた。
江戸
例外を除いて、江戸図は横長。
絵画的描写に力を入れたモノや実測を重んじた地図など様々な種類が作られた。
大坂
18世紀末には、2分5厘のマスを地図上に朱書きし移動時間の目安が分かるようにした地図が人気を呼んだ。

測量による地形図(明治〜昭和)

明治政府は、それまでの物納による納税を地価課税による金納に変更する。
土地の所有状況の把握が必要となり、地籍図の作製を進めた。
また、本格的な三角測量が導入され、国土管理と防衛の為に欠かせない基本図(地形図)の整備に取り組んだ。

「地籍図」と「地形図」

地籍図は、明治の土地制度改革に伴い、土地の所有者と所有面積を明確にして徴税に生かす為に作製された地図。
地形図は、三角測量などに基づいたた側図で、土地の高低や起伏、道路、集落などまでを精細に表現した地図を指す。

三角測量による地形図

本格測量が始まる前に作られた「迅速図」は小田原の手前までしか達していなかった為、「正式図」の作製はまず小田原付近から開始された。
1887年には、こうした地形図が出版されるようになり、誰でも購入する事が可能になった。

正式二万分一地形図
「小田原」図幅(1886年)

三角測量の仕組み

三角形の辺と角度の関係を用いる事で、直接距離を測れないような長い距離でも精密に測量する方法。
三角測量には、まず位置の基準となる三角点や水準点の設置が必要で、これらは日本では1871年から用いられた。

空中写真を地図作製に活用

当初は気球の理由が検討されたが、実用化されず、1919年、飛行機から空中撮影した写真を使った測量が開始された。
1923年の関東大震災では、被災状況の確認や復興計画の為に空中写真が活用されたが、日本全域で使われるようになるのは第二次世界大戦後

軍事機密と地図

戦前の日本では「軍事利用」が地図作製の目的の一つだった。
その為、軍事上の機密となる場所に関しては、刊行された地図から該当部分の記載が削除され、空白で表現される事も多かった。

デジタル地図(現代)

デジタル技術の発展に伴い、平成に入ると地形の把握や基本図の作製などをデジタル化する動きが広がった。
民間では、デジタル地図に現在位置情報、渋滞情報などを組み合わせて利用するカーナビや、インターネットによる地図配信などが一般的になっている。

地理情報システム「GIS」の活用

多様な地図情報をデジタル化してデータベースで管理する事で、必要なデータを組み合わせて利用できるのが、GISのメリット。
国は1995年頃からGISへの取り組みを本格化させる。
民間でも、カーナビなどでGISが利用されている。
GISでは、標高データを用いて地図に土地の起伏を表現できる。
また、時間軸を取り入れた4次元の地図表示も登場。
過去の検証や未来のシミュレーションから、防災計画や都市計画への応用が進められている。

「電子国土基本図」の整備

2009年、国土地理院は従来の2万5千分の1地形図に代わり、デジタルデータで表現される「電子国土基本図」を国の基本図として採用。
重要な公共施設のスピーディーな情報更新が可能になっていて、さらなる活用や機能強化についても検討している。

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 24号 応仁・文明の混迷と戦乱』朝日新聞出版 監修:上杉和央

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