地図の歴史は長いが、過去の「地図」から読み取れるものは、単にその時代の土地や建造物の状況に留まらない。
時代ごとの為政者の土地政策から、日本の政治状況、人々の行動範囲、さらには測量技術がどのように進んで来たのか、人々の空間認識はどう変わって来たかなど。
過去の地図は、「もう一つの歴史書」とも言える程に貴重な史料である。
古代の測量に関わる文書・史料は残っていない。
しかし、5世紀に作られた世界最大の墓である「大仙陵古墳」などから、当時も距離や角度を正確に測る測量技術が存在したと考えられている。
7世紀後半以降、国は律令体制の下、民に口分田を支給してそれに対して課税する班田収授制を実施。 その後、班田を整理する条里プランの整備に伴い、6年に一度の班田収授の際(もしくはその前年)に班田結果を表記する班田図(校田図)が作製された。
743年の「墾田永年私財法」の施行により、永続的な土地所有が認められるようになった。
この頃から、貴族や寺院などによる荘園が生まれ、それに伴い荘園の地図(古代荘園図)も作られるようになった。
古代荘園図は、校班田図を基にした物と、国司図から作られた物の2系統が現存している。
鎌倉時代から江戸時代初期まで、行基作とされる簡略な日本地図が流布した。
「行基図」と総称されており、仁和寺蔵の行基図は、現存する最古のモノ。
行基作とされる日本地図には、共通の特徴があり、丸みを帯びた国々が重なって日本の形を作っている。
行基は668〜749年、奈良時代の高僧で、灌漑事業や架橋、道路建設などに取り組んだほか、東大寺の大仏造営の為に勧心活動も行い、大僧正に任じられた。
仁和寺蔵の行基図には「行基菩薩御作」とあるが、823年に分置された加賀国が描かれている為、行基が生きた奈良時代のモノではない事になる。
東大寺再興の祖である重源が、大仏建立のときに勧進を担った行基に仮託したのではという説がある。
仁和寺蔵の日本図だけではなく、ほぼ同じ頃とされる「称名寺蔵日本図」も、南が上となっている。
16世紀末頃の「拾芥抄」の「大日本国図」は、東西方向を上下とする縦長の地図になっている。
地図の上が北に統一されるのは江戸時代、17世紀以降だ。
平安時代末期から室町時代に掛けては、全国を統一的に支配する強力な政治主体が存在しなかった為、中央政府による地図作製は行われなかった。
この時期に目立つのは、荘園の開発や管理の為に作製された地図だ。
また、簡略な日本図(行基図)や都市図なども、この頃には作られていた。
中世の荘園地図は、大きく二つに分けられる。
一つは荘園の全体像と示そうとした「領域型荘園図」で、もう一方は荘園の領有や所領配分などの揉め事を解決する為に作られた「相論型荘園図」だ。
平安末期以降に京都や奈良などで作られたとされる都市図が現存する。
例えば、鎌倉時代に書写されたとされる「延喜式」(九条家本)には、平安京の街路や施設が記された左京図・右京図が付されている。
ただし、左京図・右京図自体は、平安時代にも存在したと考えられている。
混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)とは1402年に李氏朝鮮で作られた地図。
この地図には日本列島が描かれているが、現実とは大きくかけ離れた姿が確認されている。
当時の朝鮮半島から、日本はこう見えていたのかも知れない。
混一疆理歴代国都之図の日本
14世紀中頃の室町時代(南北朝時代)に描かれた、本州から九州のほぼ全域が記された日本地図だ。
日本列島全体が残った地図では最古級のもの。
近畿を中心に九州を上に描き、京都から各地へ街道が伸びている。
日本と中国との中継ぎ貿易で栄えた沖縄「琉球」も記されている。
沖縄を「龍及国」と表現する鎌倉時代の地図の特徴と、港町の地名が多く記されるなど室町時代の特徴を備え、さらに文字の書体の古さなどから14世紀中頃に描かれた地図と判断される。
豊臣秀吉は1582年以降、全国的に検地を進めていった。
1590年に天下統一を達成すると、全国の大名らに検地を示した御前帳(郷帳)と郡絵図(国絵図)の提出を命じた。
郡絵図作製の際、秀吉は大名の領地ごとではなく国郡を一単位として実施。
国郡単位での調査は古代の律令国家のやり方で、それを踏襲する事で、自らの政治的権威を正統化する狙いがあったと考えられる。
ヨーロッパから宣教師や商人が訪れるようになった事が切っ掛けで、日本に世界地図が輸入される。
楕円状のスペースに描かれた世界地図は、「地球が球体である」事や「世界は五州から成る」事など、日本人の地理的知識に大きな影響を与えた。
この時期の代表的な世界地図は、マテオ・リッチの「坤輿万国全図」だ。
江戸時代は、何代もの将軍がその時々の目的達成や問題解決の為に、国絵図や日本図の作製を命じた。
一方、民間では木版による出版地図が一般に広まり、多くの人が地図に触れるようになって、その中からはベストセラーも生まれた。
慶長年間(1596〜1615)に出版された「拾芥抄」内の「大日本国図」が、現存する最古の出版地図。
これ以降、多彩な出版地図が刊行され人々に親しまれた。
特に、石川流宣や長久保赤水などの手による地図は、版を改訂しつつ100近くに及ぶ大ヒット作となった。
石川流宣は、菱川師宣の弟子で浮世絵師。
「日本海山潮陸図」では、街道、宿場、名所といった観光情報をそれまでの日本図とは比べられない程多く掲載し、実用的に使える事で人気が出た。
約100年の間、江戸を中心に多くの人に利用され、情報更新などで29回もの改版が確認されている。
江戸からの距離の表記や近隣の宿場町情報などが細かく書き込まれている。
1800年から1816年に掛けて日本全国の測量を行い、忠敬の死後、1821年に高橋景保によって完成せた伊能図(総称)。
実測による精密な測量が特徴で、実際の日本の地形と比べても遜色がない。
江戸時代を代表する日本地図だが、江戸末期までは幕府の官蔵に納められたままの「秘図」扱いで多くの目には触れなかった。
特に目新しい方法ではなく「道線法」と呼ばれる多角測量と「交会法」を併用。
また、距離測定の基本は「歩測」で、1歩を約69pとして測定した。
江戸時代には、各都市の地図も多数出版された。
なかでも、京都、江戸、大坂の3都市は群を抜いて多く作製された。
また、18世紀以降は、歴史的興味の高まりから、敢えて「古い時代」を描いた都市図(歴史地図)も作られ人気を呼んだ。
明治政府は、それまでの物納による納税を地価課税による金納に変更する。
土地の所有状況の把握が必要となり、地籍図の作製を進めた。
また、本格的な三角測量が導入され、国土管理と防衛の為に欠かせない基本図(地形図)の整備に取り組んだ。
地籍図は、明治の土地制度改革に伴い、土地の所有者と所有面積を明確にして徴税に生かす為に作製された地図。
地形図は、三角測量などに基づいたた側図で、土地の高低や起伏、道路、集落などまでを精細に表現した地図を指す。
本格測量が始まる前に作られた「迅速図」は小田原の手前までしか達していなかった為、「正式図」の作製はまず小田原付近から開始された。
1887年には、こうした地形図が出版されるようになり、誰でも購入する事が可能になった。
三角形の辺と角度の関係を用いる事で、直接距離を測れないような長い距離でも精密に測量する方法。
三角測量には、まず位置の基準となる三角点や水準点の設置が必要で、これらは日本では1871年から用いられた。
当初は気球の理由が検討されたが、実用化されず、1919年、飛行機から空中撮影した写真を使った測量が開始された。
1923年の関東大震災では、被災状況の確認や復興計画の為に空中写真が活用されたが、日本全域で使われるようになるのは第二次世界大戦後。
戦前の日本では「軍事利用」が地図作製の目的の一つだった。
その為、軍事上の機密となる場所に関しては、刊行された地図から該当部分の記載が削除され、空白で表現される事も多かった。
デジタル技術の発展に伴い、平成に入ると地形の把握や基本図の作製などをデジタル化する動きが広がった。
民間では、デジタル地図に現在位置情報、渋滞情報などを組み合わせて利用するカーナビや、インターネットによる地図配信などが一般的になっている。
多様な地図情報をデジタル化してデータベースで管理する事で、必要なデータを組み合わせて利用できるのが、GISのメリット。
国は1995年頃からGISへの取り組みを本格化させる。
民間でも、カーナビなどでGISが利用されている。
GISでは、標高データを用いて地図に土地の起伏を表現できる。
また、時間軸を取り入れた4次元の地図表示も登場。
過去の検証や未来のシミュレーションから、防災計画や都市計画への応用が進められている。
2009年、国土地理院は従来の2万5千分の1地形図に代わり、デジタルデータで表現される「電子国土基本図」を国の基本図として採用。
重要な公共施設のスピーディーな情報更新が可能になっていて、さらなる活用や機能強化についても検討している。