源氏の台頭

前九年・後三年合戦と源氏

東北で勃発した大規模な二度の戦乱「前九年・後三年合戦」を苦労して鎮圧した源氏は、武家の棟梁としての地位を確立した。
以降、関東を源氏の勢力圏となったが、同時に奥州藤原氏も台頭する事になる。

前九年合戦

東北の豪族、安倍氏

藤原頼通(よりみち)が平等院を建築していたころ、現在の岩手県あたりでは、安倍頼時(あべのよりとき)が勢力を伸ばしていた。
安倍氏は朝廷に帰服した人々の頭となってあたりを治めていた豪族である。

藤原登任が安倍氏に敗北

頼時はやがて朝廷の命令に従わないようになった為、陸奥守藤原登任(むつのかみふじわらのなりとう)は数千の兵を出して討伐を企てたが、たちまち打ち破られてしまう。
朝廷は1051年に河内源氏の源頼義(よりよし)を陸奥守として赴任させ、頼義・義家(よしいえ:通称、八幡太郎)父子と安倍氏との間で、本格的な戦闘が始まった。

前九年合戦が始まる

安倍頼時は胆沢城に赴いた源頼義を攻め、戦いを優位に進めたが、1057年、津軽に向かう途中に奇襲を受けて戦死した。
これを好機と見た頼義は、一気に安倍氏を滅ぼそうと決戦を挑む。
しかし、逆に頼時の子・貞任(さだとう)らの反撃にあい、大敗を喫した

清原氏を味方に付け、源氏が勝利

その後、安倍氏の専横が数年続くが、1062年、頼義は出羽国山北(秋田県)の豪族・清原光頼に臣下の礼の形を取り、参戦を依頼した。
光頼の弟・武則(たけのり)が援軍に駆けつけると、形成は逆転し、安倍氏の拠点である厨川柵(くりやがわのさく)が陥落して、貞任は戦死、源氏の勝利となった。

後三年合戦

奥州藤原氏の台頭

前九年合戦の後、清原氏は奥州の覇者となったが、20年余り後に内輪もめが起こり、本家の家衡(いえひら)と清衡(きよひら)が争った。
父の後を継いだ源義家は、この争いで清衡を助け、苦戦の末、1087年に勝利を収める。
清衡は、実父である藤原経清(つねきよ)の姓藤原に復し、藤原清衡と名乗り奥州藤原氏の祖となった。

義家の祖父、源頼信

それまで源氏の主流は都にあって藤原北家と結びついていたが、祖父の源頼信(よりのぶ)による1028年の「平忠常の乱(たいらのたたづねのらん)」の平定を切っ掛けに関東に進出。
さらに前九年・後三年合戦で声望を高め、関東での勢力と、武家の棟梁としての地位を確立した。


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