平安貴族の生活

平安貴族の生活

平安時代の貴族たちは、どのような服を着て、どのような仕事をして、どのような一日を送っていたのか?
彼らの生活をみてみる。

平安貴族の装束

女性

平安時代の宮廷女性の装束は、下着は上半身用の「単衣(ひとえ)」と、下半身用の「袴(はかま)」を 着用していた。
袴は引きずる程長い物で、身長よりも長い「袿(うちぎ)」の上に「表着(うわぎ)」を羽織り、女性たちは模様や色に気を使い、美しさを競い合っていた。

  • 正装:裳(も)、唐衣(からぎぬ)、表着
  • 略装:小袿(こうちぎ)、単衣、重ね袿(五衣)

男性

男性の装束は、上下に分かれるのが基本であった。
下半身の下着に「大口袴」を履き、上半身には「単(ひとえ)」をまとい、その上に表袴と下襲(したがさね)を重ね、さらに袍(ほう)をまとい、これを正装として「束帯(そくたい)」と呼んでいた。
略装には直衣(のうし)と狩衣(かりぎぬ)があり、烏帽子(えぼし)を頭に被っていた。

  • 正装=束帯:冠、袍(ほう)、裾、笏(しゃく)、飾太刀(かざりたち)
  • 略装:烏帽子、狩衣、指貫(さしぬき)、檜扇(ひおうぎ)

平安貴族の一日

内裏で働く貴族たちの仕事

平安京で暮らしていた貴族たちの起床は早く、陰陽寮が一日の始まりを太鼓によって告げるのが日の出前で、午前4時半〜6時半ごろ。
貴族たちは出仕の合図を告げる2度目の太鼓が鳴る日の出から45分ほどが過ぎた頃までに支度を終え、内裏へと向かっていた。

位階と官職

帝と皇族を主として、それに仕える臣下の中でも最も高位にあった官職が太政大臣、その次に左大臣・右大臣・内大臣、次に大納言、次に中納言、参議の順に官職が貴族たちには存在した。
彼らは公卿と呼ばれ、仕事としては国政を司る会議を行っていた。
参議の下にさらに少納言や近衛中将、近衛少将があり、蔵人と呼ばれる官職に就いた者までが清涼殿の殿上の間への昇殿を許されていた。

起床
日の出とともに鳴らされる太鼓に合わせて起床。
属星を唱える
生まれながらに定められた星の名を7回唱えた後、その日の吉凶を確認し、禁忌を把握する。
日記を書く
具注暦などに前日の日記を書く。(宮中の行事の備忘録として貴族たちは日記を付けていた)
日記は子孫にも代々伝えられ、現在にも当時の日記が遺されている。
※具注暦とは、奈良時代から室町時代にかけて用いられた暦の一種。 暦日の下にその日の吉凶、禁忌などを詳しく注記した巻子本の暦。
朝食
粥などの軽い食事を摂る。
出勤前は意図的に軽い食事であった。
出仕
出仕すると「日給の簡(ふだ)」と呼ばれる現在でいうタイムカードに「放ち紙」を貼って、仕事を始めた。
内裏での仕事
午前の間、仕事に当たった。
中央官庁で働く彼らの主要な仕事は、国政に関する書類の決裁や議定が中心であった。
また、朝廷には多くの年中行事があり、これらの儀式を滞りなく進める事も貴族の役割だった。
昼食
帰宅後、その日最初の「正式な食事」を摂る。
白米:強飯(こわいい)、塩、醤(ひしお)、酢、酒、山芋、香物、羹(あつもの)、煮魚、蘇(そ)など
自由時間
夕食の時間まで囲碁や双六や蹴鞠などで、自由な時間を過ごしていた。
夕食
午後4時ごろに2回目の食事を摂る。
夜間の職務
宿直や会議などの仕事に出掛ける。
宴会に参加する事も。
就寝
日没と共に就寝。
夏では19時ごろ、冬では18時ごろで、合計8時間ほどの睡眠時間を取っていた。

平安貴族の一生

平安時代の貴族には、現代の一般人の元となったとも言える通過儀礼が存在した。

誕生
女性の懐妊すると加持祈祷や読経によって出産の無事を祈る。
出産が近づくと産屋が設けられ、出産を迎える。
御湯殿の儀式
生誕7日後に行われる産湯を使わせる儀式。
産養(うぶやしない)
生誕3日・5日・7日・9日目の晩に子供の将来の幸せを願って催される祝宴
五十日祝(いかのいわい)
生誕50日目に行われる「食い始め」の儀式で、餅が50個用意される。
百日祝(ももかいわい)
生誕100日目に行われる「食い始め」の儀式で、餅が100個用意される。
乳母の選定
教育を担当する乳母を決めるが、生誕後すぐに選ばれる事もある。
髪置き
3歳頃になると幼児が、それまでは剃っていた髪を伸ばし始める。
乳児の時期は髪を剃る事で後に健康な髪が生えると考えられていた為であった。
袴着(はかまぎ)
3〜5歳頃に行われる幼児が初めて袴を着ける儀式。
親族で最も高位の者が袴の腰の紐を結ぶ。
童殿上(わらわてんじょう)
貴族の子が元服を前に昇殿し、雑用などの職務をこなす。
裳着(もぎ)・元服
裳着は女子の成人儀礼で、12〜15歳の間に行われる成人女性の正装である裳を身に付ける儀式(結婚が決まった際に急きょ行われる事もあった)。
元服は男子の成人の儀式で、年齢は正確には決まっておらず、11〜20歳の間に行われていた。
角髪に結っていた髪を髻(もとどり)として冠を被るが、冠を被せる役は成人と繋がりの深い人物に行われた。
結婚
当時の結婚は一夫多妻制で、夫が妻の家に通う婿取り婚が基本であった。
算賀
平安時代に老境とされていた40歳以降、10年ごとに行われる長寿を祝う儀式。
40歳には四十賀、50歳には五十賀が行われる。(歴史上、藤原俊成の九十賀が記録にある)
最期
棺に入り火葬となり、死後49日間は近親者は喪に服す。

平安貴族の交際

文通が主な連絡手段

平安貴族の恋愛は現在とは少し違った事情が存在していたようだ。
本人に会う前から噂話など伝え聞いた話などから好意を持ってしまったり、主に文通・手紙でやり取りしていたという。
また、垣間見という「垣根の間から覗き見る」という行為が横行していたようだ。

手紙で自分の教養をアピール

直接会う前に文通でやり取りする為、男性たちは書状を工夫する事で自身の良さを相手女性にアピールする必要があった。
男性は女性へ和歌を記した手紙を贈り好意を伝え、さらに手紙の折り方を工夫したり、色を工夫したり、書状に「付枝」として季節の花を一緒に付録したりと、様々な方法で自身の魅力を演出したのだ。
そして、女性側に脈があれば返事を行う、無ければ返事をしない、という流れが一般的であったようだ。
また、女性側は手紙を侍女に代筆させたり、意図的に連れない返事を出す事で相手の男性の試す事が多かったという。

貴族の付き合い方

当時の貴族社会では、女性が外出する事は滅多になく、男女が二人きりになれるのは女性の家に限られていた。
明け方になれば男性は帰宅せねばならず、この時の別れを「後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ)」といい、その後に手紙を贈り合う習慣があった。

平安貴族の結婚

理想の交際と結婚

手紙のやり取りの末、女性が相手を受け入れれば相手の男性に対して家や部屋へ入る事を許す手紙が送られていた。
やがて二人の関係が女性の両親に認められると成就。
当時は“男女が一夜を共にした後、3日間続けて男性が女性のもとに通う事”が成立すれば結婚となった。

結婚の儀礼には数日かける

平安時代の貴族の結婚の形態は一夫多妻制で、夫が妻の家に通う婿取り婚が基本、女性側の家族の了解が必要であった。
初夜は男性が昼のうちに女性の家に手紙を出し、夜になってから女性の家を訪れ、男性が持ってきた松明を女性の家の蝋燭に灯す事で両家の結び付きを示す儀礼があった。
母屋に通された婿は几帳越に妻となる女性と顔を合わせ契りを結び、これが3夜にわたり繰り返され、3日目を迎えると結婚が成立。
新郎は新婦の家が用意した装束を身に纏い、枕元に置かれた「三日夜の餅」を二人で食し、次に、女性方の親が用意した披露宴が行われ、二人の結婚が世間に認められる。
以後、男性は夫となって自由に女性の部屋を尋ねる事が出来るようになる。

平安貴族の隠居と死

亡骸は京都周辺に火葬

亡くなった人は棺に入り、京都周辺の鳥辺野・蓮台野・化野などへ牛車で移送、火葬・埋葬された。
鳥辺野・蓮台野・化野は平安時代の三大風葬地であった。
亡くなってから49日間は中有・中陰といい、近親者は喪に服して死者の冥福を祈った。

年中行事

平安貴族の仕事、宮中行事

平安時代の宮中では一年を通じて様々な行事が催された。
その儀式を滞りなく行うため、貴族たちはそれぞれに与えられた役割を仕事としてこなしていた。
その作法を子孫の為に書き残した物が貴族の日記であった。

  • 【1月(睦月)】元旦:四方拝 7日:白馬節絵
  • 【2月(如月)】4日:祈年祭 15日:涅槃会
  • 【3月(弥生)】3日:曲水宴、上巳の祓
  • 【4月(卯月)】1日:更衣 8日:灌仏会 中の酉の日:賀茂祭
  • 【5月(皐月)】5日:端午節会、賀茂の競馬
  • 【6月(水無月)】30日:大祓
  • 【7月(文月)】1日:乞巧奠(七夕) 15日:盂蘭盆会 28・29日:相撲節会
  • 【8月(葉月)】15日:観月の宴
  • 【9月(長月)】9日:重陽の節句
  • 【10月(神無月)】1日:更衣
  • 【11月(霜月)】中の卯の日:新嘗祭
  • 【12月(師走)】19〜21日:御仏名 30日:大祓、追儺

平安貴族の住居

寝殿造

9世紀後半から10世紀ごろになると、貴族の邸宅は「寝殿造」となる。
客間を兼ねた居間にあたる寝殿を中心に、北と西と東にそれぞれ対屋と呼ばれる部屋を設けた計4つの建物で構成されていた。

平安貴族の遊び

禁令まで出された遊び

宮廷貴族たちの余暇の過ごし方の一つが娯楽に興じる事であった。
中でも特に人気があったのが双六と碁であったという。
多くは物が賭けられ、お金や帯、花の枝などを景品としていた。
他にも負けた方が罰として勝った方に贈り物をする「負態(まけわざ)」といわれる風習もあった。

囲碁・双六
囲碁と双六はどちらも奈良時代には中国から日本に伝来していたと思われる盤上の遊戯。
当時の双六は二人で遊ぶ「盤双六」で、2つのサイコロを筒に入れて振り出し、出た目によって盤上に並べた白か黒の駒を進めるモノであった。
禁令が出されるほど多くの人々が熱狂した。
碁は6世紀頃に伝来した遊戯で、奈良時代に一般層にまで普及、平安時代半ばには女性たちも碁で遊んだ。

室内遊戯

貝合(かいあわせ)
貝殻の美しさや色合いを競ったり、貝に合った歌を詠み、優劣を競ったりする遊び。
歌合(うたあわせ)
左右2組に分かれて和歌の出来栄えを競い、歌人の力試しにもなった。
管弦
月や花が美しい時に和琴や笛、琵琶などを合奏した。
寺社や寺に奉納する事もあったという。
琵琶:弦を弾いて音を出す四弦楽器 笙:17本野細い竹管を円状に配置した楽器で立てて吹いた 和琴:日本固有の弦楽器で琴柱があり弦は6本

室外遊戯

蹴鞠
数人で順々に鞠を蹴り上げる遊びで、勝敗ではなくラリーを続ける事を目的としており、次の人が蹴りやすいよう鞠を渡していた。
物詣
寺社への参詣や参篭を行う事で、外出の機会が少ない平安女性にとっては旅行に近かったようだ。
長谷寺・清水寺・石山寺がよく好まれた。
雪遊び
現代と同じで、雪が降ると庭などで雪玉を作って遊んでいたとのこと。

平安貴族の喧嘩

平安時代には保元の乱に至るまで死罪が適用されなかったが、その影響もあったのか、意外にも貴族同士で殴り合いのような喧嘩が時折起こっていた。

相手の髻を晒す
治安元年(1021年)、内裏で行われた御仏名の場において、藤原兼房が少納言・源経定と口論の末に取っ組み合いの喧嘩に発展してしまう。
その際、兼房が経定の被り物を叩き落とし、経定の髻を露わにさせたという。
当時の男子は髪の毛を頭頂部で束ねて丁髷の様にしており、それを烏帽子や冠で覆って見えないようにしていた。
この髻を晒す事は大変な恥じな事だったのだ。
複数で一人を蹴る
『今昔物語集』に記述によると、円融上皇野の遊びで行われた宴席の際、歌人で下級貴族の曾禰好忠が呼ばれていないのに参加しており、殿上人らに引き倒されて足蹴にされ追い出されたという。
館を破壊
『日本紀略』によると、藤原兼家が右大臣・藤原師尹の従者たちに邸宅を破壊されたと記述される。
集団で石を投げる
花山法皇は屈強な従者を従えており、邸宅の門前を貴公子たちの行列が通ろうとすると、従者に牛車への投石を命じたという。
庶民の前を歩かせる
藤原道長は自分が懇意にしている受験者の結果に手心を加えるよう求めるも、それに応じなかった試験管の橘淑信を連行し、庶民の前を歩かせ辱めたという。
法皇を襲撃
藤原伊周は花山法皇が自分の愛人を奪おうとしていると勘違いし、従者を率いて法皇の行列を襲撃、法皇に矢を射かけている。
この襲撃事件によって、法皇の従者2名が犠牲になった。

宮中女性の騒動

汚物を散布
『源氏物語』に出て来る嫌がらせ事件で、帝の寵愛を受ける桐壺更衣に対し、帝の元へ渡る廊下に糞尿が撒かれたとされる。
これはあくまで物語中の出来事であるが、実話をモデルにしている可能性も否定はできない。
天皇の前での暴行事件
長和4年(1015)、 天皇に仕える民部掌侍という女房が三条天皇の前で突如暴れ出し、童に襲い掛かったのだ。
三条は童を庇うが、女房は三条にまで暴行を加えたという。
また、三条天皇の女房が宮中で皇太后・彰子の従者と乱闘に及んだという記録もある。
後妻打ち
男性を巡っての先妻による後妻への仕打ちで、北条政子による亀の前邸宅破壊事件は有名である。
平安時代に藤原道長に仕えた女房が、大中臣輔親野居宅を従者と共に襲撃した事件もある。

↑ページTOPへ