源頼朝は初めて東国の地、鎌倉に幕府という本格的に武士政権を開いた将軍の祖である。大局を見誤らずに朝廷との安定した関係を維持しながら、配下の者への配慮も忘れない優れた政治力を発揮できた。1183年には後白河法皇により東国・坂東における支配権を公認する宣旨を得ることが出来たのである。
源義経(1159〜1189)は鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝の異母弟である。治承・寿永の乱(源平争乱)において頼朝と共に参戦し「一の谷の戦い」や「壇ノ浦の戦い」で源氏軍を勝利に導いた稀代の戦術家として知られる。争乱の後、兄の頼朝と対立してしまい奥州藤原氏の平泉へと逃走を計るが、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の裏切りにより、30歳という若さで自害に追い詰められてしまった。
平清盛(1118〜1181年)は平安時代末期の平氏の棟梁である。1156年の保元の乱と1160年の平治の乱に勝利し、武士として初めてだ太政大臣にまで登りつめ、平家政権を築いた武士政権の祖となった。平家の栄華は長くは続かなかったが、祖父の平正盛が築いた権力基盤による武力と、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせる事により、天皇の外祖父となる事で、朝廷の権威すらも手中に収めることで、日本全土を収めるほどの権力を手に入れた。
後白河法皇(1127〜1192年)は平安時代末期の天皇、および上皇、法皇。保元の乱で崇徳上皇に勝利した後、上皇となり、さらに出家して法皇となった。平清盛ら台頭する平家一門と争った後、頼朝と義経の対立を招く。
源義朝は、平安時代末期(1123〜1160)の河内源氏の武将。源為義の長男であり、源頼朝や源義経の父親である。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源義家(源頼朝、足利尊氏の祖先)の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。義友は朝廷の命によって東国へ下向したが、坂東にて豪族を組織して自身の勢力を広げる事に成功した後、再び都へ戻って下野守に任じられる。
平泉文化の繁栄を築いた奥州藤原氏の祖 藤原清衡(1056〜1128年)。後三年合戦を戦い抜き奥州の覇者となった清衡。居館を安倍氏となじみ深い衣川の近くにある平泉へと移したのであった。絶え間ない泥沼の戦いを生き抜いてきた清衡は、この地に争いのない極楽浄土のような安静な土地を求めたのであろう。
源義家が名声を挙げる切っ掛けとなった戦いが「前九年合戦(1051〜1062年)」である。この戦いには朝廷の命によるもので、陸奥国の豪族の安倍頼時が国司に犯行した為、これを討つ為に頼家が父の源頼義(みなもとのよりよし)に従って参戦した。
藤原道長(966〜1027年)は平安時代公家の一条天皇の摂政として権勢をふるった藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の五男。自分の娘たちを次々と朝廷へ入内させることで、天皇の外戚となり、藤原氏全盛期の頂点に立った。晩年は出家し、法成寺を造営した。