藤原北家の躍進

藤原氏はどうやって権力を握ったのか?

藤原氏の台頭

摂関政治を通じて、天皇をも凌ぐ力を手に入れた藤原北家
彼らは如何にして、それほどの権力を握る事が出来たのか。
藤原北家が力を手に入れたのは、平安時代に入ってからだった。
それまで、一貴族でしかなかった彼らは、静的を次々と失脚させる事で、その地位を盤石のものにした。
>> 藤原北家の躍進の年表

他氏排斥で台頭した藤原北家

奈良時代に権勢を振るった藤原不比等(ふじわらのふひと)には4人の息子がいたが、737年にいずれの子も天然痘によって、早世してしまう。
藤原四家は、その四兄弟を祖とする。
武智麻呂(むちまろ)→南家、房前(ふささき)→北家、宇合(うまかい)→式家、麻呂(まろ)→京家である。
藤原四家は初めの頃、仲麻呂を輩出した南家や、百川らの式家が栄えたが、平安時代に入ってから衰退していく。
代わって繁栄したのが藤原氏北家である。

藤原冬嗣

北家繁栄の基礎を築いたのは、藤原冬嗣(ふゆつぐ)である。
810年、平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」で嵯峨天皇の信頼を得て、蔵人頭(くろうどのとう)という天皇の秘書官長ともいえる重要な職に任ぜられた。
冬嗣の子の良房(よしふさ)は、嵯峨天皇の皇女を妻とし、妹の順子(じゅんし)を仁明天皇(にんみょう)の女御(にょうご)として権力を握った。
順子と仁明天皇との間に道康親王(みちやす)が生まれると、謀略によって皇太子恒貞親王(つねさだ)を廃し、通康親王の擁立に成功する(文徳天皇)。

承和の変

このとき良房は、恒貞親王に仕えていた伴健岑(とものこわむね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)に謀反の罪を着せたが、事件に連座して京外追放、左遷、流罪になった人々の中には、名族の伴氏(ともし(大伴氏))、橘氏など、朝廷でのライバルだった公卿が多くいた。
この事件を「承和の変」という。

摂政・関白を世襲する事に

良房は次に娘の明子(めいし)を文徳天皇の女御とし、その間に生まれた惟仁親王を9歳で即位させる(清和天皇)。
そして866年、応天門の変を通じ、皇族以外で初の摂政となった。
摂政とは、天皇が幼少であったり、女帝であったりする場合に「政を摂る」こと、あるいはその役割を指すが、それまでは、聖徳太子中大兄皇子のように皇族が就任するのが通例だった。
摂政は良房の養子の基経(もとつね)に引き継がれ、基経は成人した天皇の下で摂政同様の職務を行う関白に就任する。
以後、摂政・関白の職は藤原氏北家の世襲となった。

藤原北家の絶頂期

その後、藤原氏北家は一族から后(きさき)を送り込んだり、他の有力貴族を排斥したりしながら、権力を固めていく。
その絶頂期は、3人の娘を天皇の后とした藤原道長の時代であった。

藤原北家の躍進年表

名前西暦出来事
鎌足 647年 天智天皇より、大織冠とともに藤原姓を賜る
不比等 701〜718年 大宝律令と養老律令の編纂に携わる
房前 729年 長屋王の変で、長屋王を失脚させる
冬嗣 810年 薬子の変後、蔵人頭に就任する
良房 842年 承和の変で、伴氏と橘氏を失脚させる
嵯峨上皇没後、皇位継承をめぐって伴健岑と橘逸勢が皇太子恒貞親王を立て謀反を企てたとして、健岑は隠岐、逸勢は伊豆に流罪となった。
866年 応天門の変で、伴氏と紀氏を失脚させる
平安宮応天門が放火炎上した事件で、処理にあたった良房は、政治的に対立していた伴氏、紀氏を排斥した。
事件後に清和天皇の正式な摂政となった。
基経 888年 阿衡の紛議で、橘氏を失脚させる
宇多天皇が即位する際に、橘広相(ひろみ)と基経が対立。
広相の娘と宇多天皇の間には2人の皇子がいた。
基経は広相が起草した詔勅の文言(阿衡)に難癖をつけ、自分の娘を入内させる事で決着した。
時平 901年 昌泰の変で、菅原氏を失脚させる
摂政を置かず親政を行った宇多天皇や醍醐天皇の信任が厚く、右大臣にまで昇進した菅原道真は、時平の讒言によって太宰府に左遷され、その地で没した。
実頼 969年 安和の変で、醍醐源氏を失脚させる
源高明の娘婿・為平親王は冷泉天皇の皇太子の有力者であった為、藤原氏は親王の弟を擁立。
讒言によって高明を失脚させた。
藤原氏の他氏排斥の最後の事件

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