朝廷と摂関政治

藤原氏の台頭と摂関政治

摂政・関白職の常置で藤原氏の勢力が拡大した。
次第に朝廷では天皇の権威が低下していく事になる。
しかし、必ずしも天皇より藤原氏の権力が強かった訳ではなかった。

天変地異の災害が続き天皇の権威が低下

藤原氏は天皇の外祖父を目指す

醍醐・村上天皇の時代には「延喜・天暦の地(平安時代中期10世紀頃)」と呼ばれる天皇親政が行われていたが、村上天皇が崩御して若い冷泉天皇が即位すると、再び藤原北家が政治を動かすようになった。
藤原氏は権力を掌握するため、天皇の外祖父になる事を目指した
この時代、天皇の皇子たちは母親の実家で育てられるのが一般的で、母の父親である外祖父と皇子の中が緊密化するのは自然の道理だった。
そして皇子が即位して天皇になると、この外祖父が大きな権力を持つようになった。
10世紀後半まで、摂政・関白は空位になる時期もあった。
しかし冷泉朝以降は摂政・関白が一時の例外を除いて常置されるようになり、それは明治維新まで続いた。

摂関政治は独裁ではない

この摂関の職を独占したのが藤原北家だったが、摂政や関白が独裁政治を行っていた訳ではない。
北畠親房(きたばたけちかふさ:1293〜1354年)が著した「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」に「執柄(摂政関白)世をおこなわれしかど、宣旨、官符にて天下の事は施行せられし」と記されている様に、天皇から関白、太政官への組織系統は維持され続けてきた。
きちんと公卿会議で政策を決めていたし、藤原氏以外の貴族が摂関以外の要職に就く事も珍しくなかった。
摂政や関白はあくまで「天皇に近い身内の者」として重んじられてきたのだ。

天災や政治の乱れが朝廷の権威を貶めた

摂関政治が確立されていく一方で、天皇の権威にも変化がみられるようになった。
醍醐天皇は「延喜の治」と呼ばれる天皇親政を行ったが、晩年には清涼殿に落雷が直撃し、複数の公暁が亡くなるという悲劇に見舞われている。
朱雀天皇の代には「承平・天慶の乱」が起こり、さらに富士山の噴火や地震・洪水などが頻発。
そして村上天皇から円融天皇の時代には内裏が何度も焼亡している。
この時代、このような災害が起きるのは天皇の不徳のせいと見做す向きがあった。
その為、天皇権威が弱体化し、相対的に藤原摂関家が台頭していった。

天皇にもメリットがあった摂関政治

一般的に摂関政治というと、藤原氏が天皇家から政治の実権を奪ったかのような印象があるが、必ずしもそうとは言い切れない。
何故なら藤原氏は天皇家と血の繋がりが濃く、最大の庇護者でもあったからだ。
天皇は摂関家を頼みとし、時には摂関家を守る事もあったようだ。

徐々に限られていった天皇の力

摂関政治以前の天皇家では、上皇や皇后も天皇と同等の権力を保持していた。
だが、時代の経過とともに、天皇としての機能を行使できる人物は、天皇一人に限られていった。
そして天皇は政治を円滑に遂行する為の象徴と化していき、その存在は希薄なものとなった。

藤原氏内での権力争いが生まれる

また藤原氏が摂関職を独占した事で、安和の変以降は「藤原氏vs他氏」という構図の権力争いは見られなくなった。
代わりに藤原氏同士で氏長者や摂関職を巡る争いが始まり、熾烈な争いを繰り広げた。
藤原兼通(かねみち)と兼家(かねいえ)は兄弟でありながら互いに憎み合い、兼通が関白に就くと、弟の兼家をどうにかして失脚させようとした。
「栄花物語」によると、兼通は「出来る事なら(兼家を)九州にでも遷してやりたいものだが、罪もないので出来ない」と話していたという。

最期まで仲が悪かった兼通と兼家

そして貞元(じょうげん)2年(977年)、兼家が病に倒れて自邸で伏すと、兼家の車が近くに来た事を家人が告げた。
兼通は「仲が悪い兄弟でも、死に際には見舞いに来てくれるのだな」と思っていたが、兼家の車は兼通邸を通り過ぎてしまう。
車が禁裏へ向かっている事を知った兼通は激怒し、最後の力を振り絞って参内(皇居に参上する事)した。
そして後継の関白に藤原頼忠を指名したどころか、兼家の職を格下げするという行為に及んだ。
まもなく兼通は病没したが、兄弟であってもこうした争いが行われていた。

寿命が長かった摂関家、短かった天皇家

摂関政治は兼家の子・道長の代に最盛期を迎え、「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」という望月の歌を詠んだ。
一方、天皇は内裏から殆ど出る事なく、寿命も短かった。
殆どの天皇が30〜40代前半で崩御したが、それとは対照的に摂関家の兼家・道長・頼通は、皆60歳以上の天寿を全うしている。
摂関政治は天皇家にとってもメリットが在った筈だが、やはり何らかのストレスを抱えていたのかも知れない。


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