第二次中東戦争(スエズ動乱)

第二次中東戦争(スエズ動乱)

中東・西アジア地域で民族主義運動が高まった。【1956年】
欧米諸国による経済支配に対抗すべく、イランやアラブ諸国では、民族主義運動の矛先が欧米資本排除と王政打倒に向けられた。

エジプトのナセルがアラブ民族主義の象徴へ

中東では、第二次世界大戦終了までに多くの国が独立していたが、石油をはじめとする利権を欧米資本に握られている場合も多かった。
そのため、この地域での民族主義運動は、外国資本及び彼らと結びついた王政の排除に向けられた。
1951年、イランでは、親英米派の国王ムハンマド・レザー・パフレビー(パフレビー2世)と対立するモサデグ首相が英系アングロ・イラニアン石油会社(BPの前身)を国有化した。
しかし、英米が支援する国王派のクーデターが発生し、53年にモサデグは失脚している。

スエズ運河の利権を巡って、緊張が高まる

一方、アラブ諸国では、第一次中東戦争での敗北が、欧米と癒着した王政の腐敗体質に起因するという考えが生まれ、エジプトでは52年にナセルらが率いる自由将校団がクーデターで王政を打倒した。
このエジプト革命の後に大統領となったナセルは、アジア・アフリカ会議で主導的な役割を果たすなど、第三世界の中心的な指導者として中立外交を指向。
55年には英米主導の中東条約機構加盟を拒否した他、東側陣営であるチェコスロバキアからの武器購入を発表した。
不信感を抱いた英米がアスワン・ハイダム建設の資金融資を拒否すると、56年、ナセルはエジプト駐留英軍を撤退させたうえ、7月にはダム建設資金を仲達する目的でフランス系スエズ運河会社の国有化を宣言する。
そして10月、海路の要衝を抑えられた英・仏、およびアラブ民族主義の効用を警戒するイスラエルがエジプトに軍事侵攻した事により、第二次中東戦争(スエズ動乱)が始まった。

エジプト ナセルの政治的な勝利

軍事的にはエジプトは劣勢だった。
しかし、英・仏・イスラエル3国の武力行使に対して、米・ソが協調して異を唱えた他、アジア・アフリカ諸国が一致してエジプトを擁護した為、国際世論の批判にさらされた3国は撤退を余儀なくされる。
この政治的な勝利によって、ナセルはアラブ民族主義の象徴的な指導者となり、58年のエジプト・シリア合併(アラブ連合共和国成立)やイラク革命、62年のイエメン革命、69年のリビアのカダフィによるクーデターなどに大きな影響を与えた。

アラブ民族主義の高まり

出来事
1948年 第一次中東戦争
イスラエル建国に衝撃を受けたアラブ諸国でアラブ民族主義が台頭。民族統一を掲げ、王政打倒を目指した。
1952年 エジプト革命
1953年 エジプト、共和制へ移行
1956年 ナセルが大統領に就任
スエズ運河国有化を宣言
スエズ動乱の勃発

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