ソ連の「雪どけ」

「雪どけ」とスターリン批判

独裁者スターリンの没後、ソ連は西側との平和共存路線に転換する。
この外交姿勢の転換を、ソ連の作家エレンブルクの小説にちなみ、「雪どけ」といわれた。
>> ソ連 雪解けまでの年表

冷戦構造の固定化とソ連外交の方針転換

1953年にスターリンが死去すると、フルシチョフ共産党第一書記を中心とする集団指導体制を敷いたソ連は、西側との平和共存路線へと舵を切る。
53年7月には朝鮮戦争の休戦協定が成立、54年にはインドシナ戦争の休戦会議も始まった。
55年に入ると、米・英・仏・ソは分割占領していたオーストリアの独立回復で合意した他、7月にはジュネーブ4巨頭会談を開催する。
9月にはソ連が西ドイツと国交を結ぶなど、「雪どけ」ムードは最高潮に達した。

東西共存ではなく、住み分け

その一方で、55年は西ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、ワルシャワ条約機構が結成された年でもある。
つまり、ソ連の路線変更は、冷戦構造の固定化にともない、その枠組内での共存を指向したものだったといえる。

東欧の自由化運動に対するソ連の許容範囲

事実、ソ連は自らの衛星国である東欧諸国の自立・自由化の動きは阻止している。
53年6月に東ドイツで起きた自由化でも駐留軍を出動た。

ハンガリー動乱とポズナン暴動

56年11月にハンガリーでは、前月からの反ソ暴動で復活したナジ・イムレ首相のいるハンガリー領内に軍事介入、数千人の使者を出した上、首相を処刑した。
このハンガリー動乱は、56年フルシチョフが行ったスターリン批判の影響で起きた自由化運動に端を発したものだ。
尚、同年には、ポーランドでも自由化運動(ポズナン暴動)が起きているが、ソ連は軍事介入にまでは踏み込んでいない。

ワルシャワ条約機構からの脱退は許されない

ハンガリーとポーランドの違いだが、ハンガリーのナジ・イムレはワルシャワ条約機構からの脱退をも表明していた。
これに対し、ポーランドのゴムウカ党第一書記は、同機構に留まりつつ自由化改革を実施した点にあり、このこのあたりから、当時のソ連外交の許容範囲を伺い知る事が出来る。

ソ連 雪解けまでの年表

出来事
1947年 9月 コミンフォルム結成 東西冷戦の始まり
1948年 6月 ベルリン封鎖
1949年 8月 ソ連、核実験に成功
  10月 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立
1950年 2月 中ソ友好同盟相互援助条約締結
  6月 朝鮮戦争勃発
1953年 3月 スターリン死去
  6月 東ドイツで民主化運動、ソ連軍が鎮圧
ソ連、朝鮮戦争休戦を提案
1954年 4月 ソ連、ジュネーブ休戦会議に出席
1955年 5月 ワルシャワ条約機構結成
ソ連、オーストリア国家条約締結
ソ連、ユーゴスラビアと和解
  7月 ジュネーブ4巨頭会談
1956年 2月 スターリン批判
ソ連共産党第20回大会において、フルシチョフ第一書記が秘密報告を提出。
スターリンの個人崇拝助長や大粛清などを非難した。
  10月 日ソ共同宣言
  11月 ハンガリー動乱
民主化デモによる親ソ派ラーコシ政権の打倒に始まる一連の騒動。
民主化運動に後押しされた改革派のナジ・イムレ首相がワルシャワ条約機構脱退や複数政党制意向を宣言。
ソ連は軍事介入でナジを逮捕し、民衆運動を鎮圧した。
1959年 9月 フルシチョフ訪米
1961年 8月 ベルリンの壁構築

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