自衛隊創設

日本の再軍備 自衛隊創設

独立回復後の諸政策と日本の再軍備問題【1954年】
冷戦の激化にともないアメリカは防衛負担に耐えられなくなり、採算にわたって日本に再軍備を求めてくるようになり、自衛隊が創設される事に。

占領後期の政策を受け継いだ労働運動の抑制策

サンフランシスコ平和条約で独立回復を達成した吉田茂首相は、1952年4月の条約発効後も引き続き政権を担当した。
吉田によっての急務は、占領期の諸法令が失効する事にともなう国内体制の再編だった。
その基本方針は占領後期のGHQの政策を引き継いでおり、労働運動の抑制は代表例といえる。

暴力的な活動を禁止

平和条約発効翌月には、皇居前広場に乱入したメーデーのデモ隊と警官隊が衝突するメーデー事件が発生。
これを受けた吉田は、7月に「破壊活動防止法」を公布するとともに、その調査機関として公安調査庁を設置した。
この他にも、電気・石炭業などのストライキを制限するスト規制法や、教職員など教育公務員の政治活動や政治教育を禁止する教育二法を成立させている。

アメリカの要求に押し切られ創設された自衛隊

一方、独立前からアメリカに要求されていた日本の再軍備に関して、吉田は経済成長優先(吉田ドクトリン)の立場から否定的な態度を取ってきた。
しかし、冷戦が激化するにつれ防衛負担が重荷となったアメリカは、日本への再軍備要求を強めていく。
特に講和条約の交渉で来日した国務省顧問ダレス投特使は強硬で、早期講和の実現には再軍備要求を無視できないと考えた吉田は、警察予備隊を11万人規模の保安隊に改組すると約束した。
この結果、52年8月には保安隊と、海上警備隊から改組された警備隊を管轄する保安庁が設置された。
しかし、アメリカは軍事的・経済的援助に関するMSA協定の締結交渉に際して、さらに日本の防衛力強化を求め、保安隊・警備隊は防衛庁管轄の自衛隊へと改められたのだ。

自衛隊は憲法9条戦力不保持に違反するか?

これら実質的な日本の再軍備に関して、国内では憲法9条の戦力不保持に違反するとの批判が巻き起こった。
対する政府は、警察予備隊・保安隊は警察的組織であり、戦力にあたらないと反論した。
自衛隊に関しては54年12月に「自衛のために必要な限度の防衛力は戦力にあたらない」という解釈を示し、現在に至っている。


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