ソ連大統領ゴルバチョフの改革

ゴルバチョフの経済・社会改革

経済の行き詰まりに対しグラスノスチとペレストロイカを掲げたゴルバチョフの改革で、ソ連の社会・政治体制が急速に変革を遂げる。
しかし、チェルノブイリ原発事故により、ソ連の隠ぺい体質とご都合主義が露見。
ゴルバチョフは大統領制を導入し、国家と共産党の分断を図る。

外交・経済・社会に及ぶゴルバチョフ改革

疲弊するソ連経済

1970年代の原油高を受け、ソ連は、外貨獲得手段の大部分を石油や天然ガスの輸出に依存する体質が強まっていた。
コンピューターなど技術集約的な産業分野で西側諸国に大きく後れを取っていた。
その結果、80年代に入って原油価格が下落すると経済の行き詰まりが鮮明になり、アフガニスタン情勢の泥沼化もあって、ソ連の経済は疲弊していった。

米中へ歩み寄る外交姿勢

こうした状況下の85年3月に就任したゴルバチョフ書記長は、さっそく新思考外交と呼ばれる全方位的な融和外交への路線転換を図る。
アメリカとはデタント時代と同様、軍縮を外交カードに歩み寄り、87年には中距離核戦力(INF)全廃条約に調印。
88年にはアフガニスタンからの撤退を宣言し、89年には中国のケ小平と会談して中ソ対立を終わらせた。

グラスノスチとペレストロイカ

国内では、就任直後からグラスノスチ(情報公開)を打ち出し、国家指導には不適切とされてきた犯罪統計や災害情報を公開した。
さらに、言論の自由を認め、「第二のスターリン批判」といわれた歴史の見直しも行っている。
また、86年からはペレストロイカ(建て直し)を掲げ、民会企業や外資との合弁事業の解禁、企業自治の強化など、市場経済の導入を中心とした改革を推進する。

チェルノブイリ原発事故

しかし、この時期、ソ連に大打撃を与える事故が起こる。
86年4月、現在のウクライナで起こったチェルノブイリ原発事故である。
この事故では、当事者らが事故の隠ぺいを図るなどの理由から、情報伝達が大幅に遅れてしまい、住民の非難が遅れてしまう。
さらに、ソ連よりも先に、北欧のスウェーデンによって、放射能漏れの事態が発表されてしまい、ソ連全体の国際的な信用を貶める事になる。
グラスノスチで高まっていた国内世論は、体制の変革を求めて盛り上がった。

大統領制を導入

こうした世論に押されたゴルバチョフは、共産党保守派の抵抗が遅れると、90年には憲法を改正して、党と国家の分離を図るべく大統領制を導入する。
自ら初代大統領に就任して改革に邁進していったのである。


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