ソ連型の計画経済が行き詰まりを見せた1960年代。
社会主義制度を敷いていた東ヨーロッパ諸国では経済が停滞していた。
再び経済を活発化するために独自の改革を模索する動きが現れ、脱ソ連の活動が強まった。
これらの改革を押える為、ソ連は軍事行動を起こすが、結果的としてソ連の求心力が低下、後の崩壊へと繋がっていく。
1964年、ソ連ではフルシチョフが失脚し、ブレジネフ第一書記、コスイギン首相による新体制に移行した。
当時のソ連は経済低迷期にあり、彼らは企業の自主性を高める改革を実施する。
ただし、ソ連の経済不振は、企業努力に繋がる経済的インセンティブ、従業員が働く事に喜びを感じる機会の欠如という欠陥に起因していた。
当時のソ連は、計画経済という国家が全てを決めてしまう経済政策を取っていた。
計画経済では競争が存在せず、頑張っただけの結果が得られないという、根本的な部分に原因があった。
そのため、社会主義という国の仕組みを見直さない限り、部分的な改革では好転しなかったのだ。
同様の経済不振は東欧諸国共通の問題であり、やがて、ソ連のくびきを離れて独自の経済改革を指向する国も現れ始めた。
ルーマニアでは、65年には党第一書記に就任したチャウシェスクが、石油資源を背景とした独自の工業化路線を打ち出している。
そして、企業の自主性を重視する改革を進めていたチェコスロバキアでは、経済改革が政治的な自由化要求へと発展。
68年に第一書記に就任したドプチェクは、「人間の顔をした社会主義」を掲げて、政治犯の釈放や外国旅行の解禁、企業の自主管理といった大胆な自由化の改革を進めていった。
6月には、多くの著名人の署名を得た「二千語宣言」も発表され、改革推進や共産党の権限抑制が謡われている。
このチェコスロバキアの「プラハの春」に対し、自由化の波及を恐れたブレジネフは、「社会主義体制を守る為には、一国の主権は制限される」という制限主権論を唱えた。
8月にはワルシャワ条約機構の加盟国五カ国で軍事介入を敢行する。
しかし、このチェコスロバキア事件に対しては、ルーマニアが派遣を拒否した他、アルバニアがワルシャワ条約機構を脱退。
中国は「社会帝国主義」と糾弾するなど、ソ連の求心力はますます低下していった。