プラザ合意

プラザ合意

プラザ合意とは1985年9月にG5(日米英独仏)の間で結ばれた合意。
米国の呼掛けで、米国ニューヨークのプラザホテルにG5の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり会議が開催された。
プラザ合意とはどのような目的で結ばれたのか、日本にどんな影響を与えたのかを簡単に見てみる。

貿易赤字に苦しんでいた米国

1980年代前半のアメリカは莫大な貿易赤字に苦しんでいた。
とくに対日貿易赤字は、1985年のアメリカの貿易赤字全体の約4割を占めていた。
中曽根内閣は以前から、国民一人あたり100ドルの外国製品購入を呼び掛けるなど、貿易摩擦の解消に取り組んでいたが、さらなる対策が必要となった。

米国は対日貿易を優位にしたかった

当時のアメリカから見れば、対日貿易赤字はドルに比べて日本の円が不当に安いのが原因であるとされていた。
そこでアメリカは、対日貿易を減らす為に、円をもっと高くすれば良いと考えたわけだ。
円を高くすれば日本ではアメリカ製品が売れるようになり、逆にアメリカでは日本製品の売れ行きが落ちるだろう、という算段だった。

一見するとアメリカだけの事情に見えてしまうが、覇権国家・アメリカの経済不振は他の国にも必ず波及してしまうのは歴史が証明していた。
そこで各国も某かの施策を打つ必要があった。

プラザ合意・円高ドル安へ誘導

1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5、先進国5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・日本)が開かれた。
そして、政策的に円高ドル安へ誘導する事が合意された。(これが「プラザ合意」である)

日本は円高になり、貿易に大打撃

プラザ合意が結ばれた結果、1ドル=240円だった相場は翌1986年には一時150円まで高騰した。
そして、急激な円高は、日本の輸出企業に深刻な打撃を与えた。

日本は低金利政策で対処

企業は円高のメリットに便乗

不況対策として、日本銀行は公定歩合(日銀が一般の銀行に金を貸す際の利子率)の引き下げに踏み切り、1987年には2.5%と、過去最低水準になった。
大量の資金を安く借りられるようになった事で企業は息を吹き返し、また、円高で海外製品が安くなった事で消費ブームが起こり、日本経済の空前の好況となった。

日本はバブル経済へ

実態のない好景気に沸き立つ日本

しかし、なかには低金利の資金を借りて本業以外の不動産や株式・債権などに投資する企業も出てきた。
財テク※という言葉が流行し、実際の経済と離れたところで、土地・株・ゴルフ会員権・美術品などの価格がどんどん高騰していった。
このように資産額が泡のように膨らんでいる様に見える状態が「バブル経済」である。
※財テクとは、企業が余剰資金や外部から調達した資金で株式や債券、不動産に投資し、利益を上げようとすること

地価が高騰していく

1987年10月19日、ニューヨーク株式市場は大暴落し(ブラックマンデー)、翌日の東京市場の日経平均株価の下落率も戦後最悪の14.9%を記録した。
しかし、半年後には回復し、1989年末には日経平均株価は3万8915円と、ピークを迎えた。
株価はその後、伸び悩んだが、株価に一歩遅れる形で地価が高騰し、1990年3月には過去最高の上昇率を記録した。

やがて、バブル崩壊へ

大蔵省は不動産向けの融資を抑える総量規制を通達する。
その前年から数度にわたって金利引き上げも行われ、1991年のバブル崩壊へと繋がっていく。


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