1979年、サダト大統領の決断で中東戦争が終結。
ナセルの急死を受け、1970年に副大統領から昇格したサダトは、脱ナセル路線を進め、イスラエルとの単独和平を実現した。
しかし、これに反対する中東各国はエジプトとの国交を断ち、エジプトはアラブ世界で孤立。
さらにサダト大統領はイスラム原理主義者には暗殺されてしまう。
>> エジプト・イスラエル和平年表
第三次中東戦争(六日間戦争)でエジプトが大敗し、大きく権威を失墜させたナセル大統領は、間もなく急死してしまう。
ナセルに代わってエジプトの大統領に就任したサダトは、ソ連から供与された新しい兵器を用い、1973年10月、シリアと共にイスラエルが占領するシナイ半島とゴラン高原に奇襲攻撃を仕掛けた。
第四次中東戦争である。
第三次中東戦争で大敗したアラブ側が攻めて来るとは考えていなかったイスラエルは虚を衝かれ、エジプト軍のスエズ渡河を許してしまう。
その後、態勢を立て直したイスラエル優勢のうちに停戦となった。
しかし、エジプト軍が新規投入した対戦車ミサイルや対空ミサイルで多くの被害を出したイスラエルは、少なからぬショックを受けていた。
また、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)による石油戦略の発動もあって、政治的にはアラブ側の勝利であった。
以後、サダトはナセルが推進していたアラブ民族主義ではなく、資源ナショナリズム路線を加速させる。
国内の左派勢力を排除する一方で、ナセルが弾圧していたムスリム同胞団などのイスラム文化復興運動を容認した。
経済政策では、外資導入による経済の立て直しを目的として、為替や貿易の自由化といった経済開放政策を実施している。
サダトは外交では親ソ連路線から、親米路線へ転換する。
さらにイスラエルとの関係改善にも乗り出し、77年11月には電撃的にエルサレムを訪問し、占領地からの撤退と引き換えに平和条約の締結を提案した。
第四次中東戦争で、エジプトは緒戦の限定的な勝利の後、深追いをしなかった。
これは、新兵器による高い戦闘力を示す事で、イスラエルに一定の脅威を与え、対等な立場での和平を狙ったサダトの策略だったと考えられる。
一方、当時エジプト国内では、長きにわたるイスラエルとの対立を疎む声が増えていた。
政府はアラブ全体の為ではなく、エジプト国民の為に政治を行うべきだという世論が強くなっていたのだ。
つまり、サダトの行動はナセルのアラブ主義からエジプト優先主義への転換であり、最大の脱ナセル化政策だったともいえる。
以後、カーター米大統領の仲介によるキャンプ・デービット合意を経て、79年にエジプト・イスラエル平和条約が成立。
アラブの大国エジプトがイスラエルの生存権を認めた事で、4次に及んだ中東戦争は終結を迎えた。
しかし、このイスラエルとの単独和平に反対するアラブ18カ国とパレスチナ解放機構(PLO)はエジプトとの国交を断ち、エジプトはアラブ世界で孤立する。
そして、81年、サダトは翌年のシナイ半島返還を見る事無く、イスラム原理主義者に暗殺された。
ナセル | サダト | |
---|---|---|
生没年 | 1918〜1970年 | 1918〜1981年 |
出身組織 | 自由将校団 | 自由将校団 |
経済政策 | 計画・統制経済 | 外資導入・開放政策 |
外交 | 親ソ連 | 親アメリカ |
対イスラエル | 第二次中東戦争 第三次中東戦争(大敗) |
第四次中東戦争(戦略的勝利) |
西暦 | 出来事 |
---|---|
1948年 | イスラエル建国、第一次中東戦争 イスラエルが勝利、パレスチナは領土の多くをイスラエルに占領される。 |
1956年 | 第二次中東戦争(スエズ動乱) エジプトが勝利、スエズ運河の利権がエジプトに |
1967年 | 第三次中東戦争(六日間戦争) イスラエルが勝利、シナイ半島やエルサレム、ゴラン高原などイスラエルが占領 |
1970年 | ナセル大統領の急死により、サダトが大統領に就任 |
1972年 | ソ連軍事顧問団がエジプトから追放 |
1973年 | 第四次中東戦争、シリアと共にエジプトがイスラエルに侵攻 イスラエル優勢のうちに停戦 |
1977年 | サダトがエルサレムを訪問 |
1978年 | キャンプ・デービット合意 |
1979年 | エジプト・イスラエル平和条約締結 |
1981年 | サダト大統領暗殺 |
1982年 | 後継のムバラク大統領がシナイ半島返還を実現 |
1989年 | エジプト、アラブ連盟に復帰 |