自民党と明治政府

自民党と明治政府の繋がり

自民党は戦後に立ち上げられた政党であるが、何も戦後にポッと出に生まれたわけではなく、その系譜は明治政府にまで遡る。
日本最初の政党は自由党であったが、その自由党の議員が立憲政友会に参加し、その立憲政友会の議員が自民党に参加した。
明治政府と自民党の繋がりを見てみる。
>> 自民党政権の始まり

1955年、自民党が結党

戦後最初の10年も実質・自民党政権

“戦後の日本政府の歴史”は“自民党の歴史”と言えるほど、自民党は長きに渡って政権与党として国会に君臨した。
その自民党は戦後10年となった1955年に結党したが、結党前の10年の首相を務めた吉田茂(1878年〜1967年)と芦田均(1887年〜1959年)の2人も後に自民党に入党している。
つまり、戦後最初の10年間が自民党の源流であったと言える。

自民党誕生前の政党

自由党〜日本最初の政党

薩長専制に対抗した自由党

日本の本格的な政党の始まりは、明治14年(1881年)に結成された自由党であったいわれる。
当時の政府は大久保利通・伊藤博文ら薩長出身者の専制状態になっており、それに対して国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動が高まっていった。
その中心となったのが自由党で、初代党首は板垣退助だった。

自由党から立憲政友会へ

解散・再興の後に自由党は議会で多数を占め、藩閥と激しく対立したが、次第に妥協・提携していった。
そして伊藤博文が新党設立を宣言し、旧・自由党系の議員が全面的に参加して成立したのが立憲政友会だ。

立憲政友会が政党内閣を実現

政友会は政党の進出を抑えようとする山県有朋の山県閥などと対立した。
しかし、やがて本格的な政党内閣を実現し、昭和初期まで常に政党政治の中心的役割を果たした。

自民党と明治政府の繋がり

自民党と立憲政友会の連続性

立憲政友会と自由民主党は、党員の連続性という点で深く結び付いている。
1955年(昭和30年)の保守合同で誕生した自民党の初代総裁は鳩山一郎であったが、その鳩山一郎は昭和のはじめに立憲政友会に所属していた。
鳩山一郎は、田中義一内閣で書記官長(田中義一は立憲政友会の総裁)、犬養毅内閣で文部大臣(犬養毅も立憲政友会の総裁総裁)を務め、鳩山一郎自身も総裁候補に推された事があった。
また、池田隼人・岸信介の時代に自民党の副総裁だった大野伴睦も立憲政友会に所縁があった。
立憲政友会の多くの幹部クラスの党員がそのまま自民党に所属していったのだ。l

自民党の系譜は明治政府まで遡る

自民党は、政友会を通してその母体である自由党と(間接的に)繋がっており、見方によっては伊藤博文を媒介として明治の藩閥政府にも一応の繋がりは在る。
戦後の吉田茂は土佐(高知県)の系譜だが、明治の元勲・大久保利通の次男である牧野伸顕の娘を妻とする事で、薩摩閥と繋がりがある。
長州閥の系譜も岸信介や佐藤栄作に繋がりがあり、現代の自民党も系譜上、明治の藩閥政府を祖としている。

現代政党が歴史にあやかる弊害も

世襲議員、世襲政治だとの批判

自民党の系譜が明治政府にまで繋がるのは先に述べたとおりだが、政党に限らず政治家・議員の個人に絞って見ても、現代の政治家が歴史上の政治家たちとの繋がりを重要視してるのは確かである。
本人の力量や熱意よりも血筋・系譜が優先され、選挙に勝つにも生まれを重視し、保守派議員などは長州など過去の藩閥勢力に肖って勢力を保とうとする傾向にある。
こういった状況を「世襲政治だ、時代錯誤だ、非・民主主義的だ」と批判する声もある。

政権交代が起こせない

歴史は書き換える事が出来ない。
新しく立ち上げられた政党には、歴史上の政党との所縁などある筈もない。
自民党にとっては、自党が明治政府に繋がりがある事は強みであり、同時にこれが現・野党との正統性の差になってしまっている。
結果的に、野党に対し自民党だけが飛びぬけた力を持ち、民主主義的な政権交代が起こらない、というパラドクスに陥っている。


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