自民党の派閥争い

自民党の党内派閥争い

野党の多党化により、日本の政界は自民党の一党優位体制となった。
外敵がいなくなれば分裂が起こるという事は歴史が証明しているが、自民党もその例外ではなく党内の派閥争いが激化する。
平成や令和の時代に入っても続く自民党の派閥争いがどのように始まったのかを見てみる。

佐藤栄作時代に派閥再編が進む

日本は高度経済成長期

佐藤栄作政権は1964年(昭和39年)11月から1972年(昭和47年)までの7年8ヶ月という長期政権であった。
この時代の日本は高度経済成長期で、1968年(昭和43年)にGNPで世界第二位の経済大国となり、その2年後に大阪万博でその経済発展した様を世界に示した。

世界では冷戦激化、国内では安保闘争

世界では米ソの冷戦構造のなかでベトナム戦争が長期化、その影響から、日本国内では反戦機運が高まり70年安保闘争が激化していた。
また、日本では経済成長の副作用として公害問題が各地で起こっていた。

長期政権中に派閥が動いて行く

このような情勢のなか、自民党では佐藤栄作首相による長期政権のもと、派閥の再編が進んでいった。
長期政権中は野党が弱い傾向にある為、与党は緊張感を無くし、分裂を起こすもの。

五派閥に再編

福田派、大平派、三木派、中曽根派、佐藤派

岸信介・元首相が率いる岸派は3つに分派したのち「福田派」となり、池田勇人・前首相の池田派(宏池会)は前尾繁三郎を経て、大平正芳が継承し「大平派」となる。
河野派は中曽根康弘によって継がれ「中曽根派」となり、石橋派は三木武夫の「三木派」に吸収された。
こうして、自民党創設期からの派閥は「福田派」「大平派」「三木派」「中曽根派」そして「佐藤派」の五派閥に再編された。

弱小派閥が多かった為、佐藤派は安泰だった

五派閥のうち、福田派以外は弱小派閥の域を出ていなかった為、佐藤派は特に政権運営を脅かされる事もなく安泰であった。

ドル・ショックで佐藤退陣

しかし1971年(昭和46年)にドル・ショックが日本を直撃、それまで『1ドル360円』だった固定為替相場制が崩れ、日本は円高に苦しむ事となった。
日本はこれまでの経済成長に陰りが見え始め事で、佐藤長期政権に対しての風当たりに変化が現れ、佐藤は翌1972年(昭和47年)に退陣となった。

ボス不在で、派閥闘争が激化

佐藤退陣後はポスト佐藤を巡り、三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫・中曽根康弘の「三角大福中」の五大派閥がしのぎを削る時代に移っていく。
こうした「前のボスがいなくなってしまい、その側近たちが熾烈な政争を始める」という構図は、日本史のなかで際限なく繰り返されて来た事だ。

田中角栄、後続内閣を支配する院政

農家から首相に昇りつめ国民的人気を得る

ポスト佐藤争いを制したのは田中角栄であった。
田中角栄は政治の家系ではなく農家の生まれで、更に学歴もなく資金にも恵まれなかったが、そこから総理にまで昇り詰めた事で国民的人気を博した。
日中国交正常化を果たし、著書『日本列島改造論』はベストセラーとなった。

スキャンダルで退陣に追い込まれる

1973年(昭和48年)秋、オイルショックが日本を直撃し、翌1974年には戦後初のマイナス成長となってしまう。
ここで更に追い討ちを掛けるように、田中の金脈スキャンダルが浮上、結局二年半で田中は退陣してしまった。(田中内閣:1972年7月7日〜1974年12月9日)

退陣後に更に強大な力を持つ『現代の院政』

あっさり退陣してしまった田中であったが、むしろ退陣してからこそ自民党の最高実力者として支配力を保持し続けた。
田中は金脈スキャンダルによって逮捕されてしまったが、被告の身でありながら「キングメーカー」として政界に君臨し続ける。
首相を引退した人物が退陣後に現政権に対して強い影響力を持つ『現代の院政』である。

田中角栄の退陣後

三木内閣が成立

田中の後継には党副総裁・椎名悦三郎の裁定で三木武夫が指名された。
福田派や大平派より三木派は弱小であった為、三木内閣は暫定内閣と見られていた。

田中のスキャンダル発覚

疑惑究明に動き党内から攻撃される

1976年(昭和51年)にロッキード事件が発覚すると疑惑究明に意欲を見せ、国民の支持を集めるが、党内からは反発が強まり「三木おろし」が始まった。
結局、衆議院選挙で過半数割れの惨敗を喫した三木内閣は退陣する事になった。(三木内閣:1974年12月9日〜1976年12月24日)
先の首相のスキャンダルを追求しようとすれば党内や有力派閥から反発が出て攻撃される、ネガキャンの末に失脚してしまう。
そういった「逆・自浄作用」的な現象は政権スキャンダル名物と言える。

田中に潰された福田内閣

田中派が大平についてしまい退陣

三木を引き摺り下ろした福田赳夫と大平正芳はその後は二人とも首相となるが、二人の軋轢は深まっていく。
福田赳夫は71歳首相となるが、わずか2年の短命政権(福田内閣:1976年12月24日〜1978年12月7日)となった。
これは総裁予備選挙で田中派が大平に付いた為であった。

「角影内閣」と呼ばれた大平内閣

田中派のお陰で総裁予備選に勝利

続いて首相となった大平正芳であったが、先の総裁予備選挙で田中派が大平に付いた為に勝利を得る事が出来た。
大平は政権基盤が強固ではなく、田中の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。

総選挙に敗北し、派閥抗争に発展

しかし、1979年(昭和54年)の総選挙で自民党が大敗すると、これは大平の責任問題に発展する。
それでも大平は首相を辞任しようとはせず、四十日抗争と呼ばれる派閥抗争が続いた。
半年後、大平は衆参同時選挙戦中に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。(大平内閣:1978年12月7日〜1980年6月12日)

鈴木善幸政権

やはり田中の影響下にあった

続いて大平派の鈴木善幸が後継総裁となるが、やはり鈴木内閣も田中の強い影響下にあった
しかし、調整力に長けていた鈴木は抗争続きの党内を一旦は落ち着かせる役割を果たす。
だが、結局は2年あまりで退陣を表明した。(鈴木内閣:1980年7月17日〜1982年11月27日)

中曽根政権

田中派の支持を得て総裁予備選挙で圧勝

鈴木退陣の後、続く総裁予備選挙では田中派の支持を得て中曽根康弘が圧勝した。
中曽根内閣は1982年(昭和57年)から五年間と長期政権となったが、田中角栄の影響力の強い内閣だった為、「田中曽根内閣」「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄された。(大平内閣、鈴木内閣も同様)
1987年11月、中曽根は竹下登を後継に指名、余力を持ったまま総理を退任した。(中曽根政権:1982年11月27日〜1987年11月6日)

田中角栄の影響力の終焉

田中角栄本人が首相の座に就いていたのは僅か2年半足らずであったが、その後も党内で強大な影響力を持ち続けていた。
しかし、その盤石だった田中派にもやがて終焉の時代がやって訪れた。

田中派の竹下が新たに派閥を発足

竹下登が創政会を結成

1983年10月に角栄がロッキード裁判で懲役4年の有罪判決を受ける。
その二年後の1985年(昭和60年)、田中派の総裁候補だった竹下登が派内で創政会を結成した。
竹下は事前に角栄に「勉強会をやらせて下さい」と直談判していたが角栄がそれを拒否、それが竹下が派閥を立ち上げる理由になったようだ。

角栄は竹下派設立を妨害するも、脳梗塞で倒れる

創政会の設立を受けて角栄は激怒、角栄は猛然と創政会の切り崩しにかかった。
81人いた創政会のメンバーは角栄の猛攻を受け40人程までに減らされてしまった。(当時の自民党の総裁選規定では立候補に必要な推薦人は50人であり、81人から40人にまで減らされたのは大きな意味を持っていた)
しかし、1985年2月27日、角栄は脳梗塞で倒れてしまい、角栄の政治生命はそこで断たれる事となった。

竹下登が首相に就任

1987年、同メンバーによる自身の派閥・経世会を発足させると、中曽根の後継指名により竹下が首相に就任した。

田中派は角栄の“私城”と化していた

田中派は121名を抱える党内最大派閥であったが、田中角栄退陣から10年を経ても派閥から首相候補を出さないという状況であった。
それは、田中が自派閥から総裁候補を出す事によって自らの影響力低下を恐れた為であった。(角栄は自身が再び首相に就任する事を目指していたとも)
しかし、田中派から竹下という新たな総裁・首相が誕生した事によって、田中派は角栄の“私城”ではなくなったのだった。

“派閥”と“院政”は現在まで続く

「キングメーカー」と呼ばれた田中角栄の影響力はこれをもって終焉を迎えた。
しかし、この自民党の派閥というグループ、過去の首相が影響力を持ち続ける長老政治的な体質は現在までも受け継がれている。


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