1965年、日韓基本条約が調印された。この国交回復交渉は7次、13年半に渡って繰り返された。
独立を回復した日本にとって、韓国との国交正常化は外交上の懸案だった。
しかし、感情的な対立や、韓国初代大統領 李承晩の海洋上の反日政策などにより、交渉は長引く事になる。
そして、日本側の妥協により、韓国への経済協力を条件として、日韓基本条約は実現した。
>> 日韓国交正常化 年表
1965年6月、日本は日韓基本条約に調印し、韓国と国交を結んだ。
この両国の国交正常化交渉は、GHQの斡旋で51年から始まっていたが、両国の感情的な対立もあり長期化していた。
まず、反日政策を掲げる李承晩(イ・スンマン)大統領は、52年1月に「海洋主権宣言」を発表し、韓国周辺の公海上に立ち入り禁止区域を設定する。
国際法に違反した一方的な措置だったが、韓国はこの「李承晩ライン」を超えた日本の漁船を次々と拿捕し、漁船員を抑留したのである。
その数は拿捕漁船328隻、抑留船員3929人に及び、韓国側官憲による銃撃などで、44人の死傷者も出ている。
一方、53年10月の交渉で日本側の久保田貫一郎代表が「日本の統治は朝鮮の近代化に寄与した面もあり、一面的に非難される事はない」と発言した事に韓国側は猛反発する。
以後、交渉は滞る事になる。
事態が進展したのは、61年のクーデターで朴正煕(パク・チョンヒ)政権が成立してからだった。
当時の韓国は経済不振と失業者の増大に悩まされており、朴政権は日本の経済協力を必要としていたのだ。
また、ベトナム戦争激化を受け、アメリカが東アジアにおける西側陣営の結束強化を求めた事も後押しとなった。
こうして、日本側が戦後賠償の一環として3億ドルの無償経済協力、2億ドルの長期低利借款、3億ドルの民間借款という膨大な経済協力を提供する事などにより、交渉は妥結した。
日本の陸軍士官学校を卒業後、満州国軍中尉として終戦を迎えた。
朝鮮戦争に従軍した後、米陸軍砲兵学校に留学。
1961年の軍事クーデターでは中心的な役割を果たし、63年に大統領に就任。
日韓基本条約を締結して、高度経済成長を実現したが、強権政治と政治腐敗などから反発が高まり、79年に暗殺された。
娘の朴槿恵(パククネ)も第18代の韓国大統領となった。
1951年 | |
---|---|
9月 |
|
1952年 | |
1月 |
|
2月 | 第一次日韓会談開始 |
4月 | サンフランシスコ平和条約発効 |
1953年 | |
2月 | 第一大邦丸事件 日本人漁船員が韓国側の発砲を受けて死亡 |
4月 | 第二次日韓会談開始 |
7月 | 朝鮮戦争の休戦協定が成立 |
10月 |
|
1957年 | |
12月 |
|
1958年 | |
4月 | 第四次日韓会談開始 |
1960年 | |
4月 | 学生革命(4・19革命)で李承晩政権が崩壊 |
7月 | 60年安保闘争の結果、岸信介首相が退陣 |
10月 | 第五次日韓会談開始 |
1961年 | |
5月 | 朴正煕将軍のクーデターで会談が中断 |
10月 | 第六次日韓会談開始 |
1962年 | |
11月 | 戦後賠償の一環として韓国への経済協力(無償3億ドル、有償2億ドル、民間融資3億ドルの提供)などに合意 |
1964年 | |
12月 | 第七次日韓会談開始 |
1965年 | |
1月 | アメリカの要請で韓国軍の南ベトナム派兵が決定 |
2月 | 北ベトナムへの爆撃(北爆)開始 |
6月 |
|