キューバ危機

キューバ危機 核戦争の危機

世界が全面核戦争の危機に立たされた13日間【1962年】
平和共存を勧めながら、軍拡競争を続けた米・ソが、カリブ海・キューバの核ミサイル基地建設を巡って対立。
米ソの妥協により、両者が核ミサイルを引っ込める事で、核戦争の危機が回避された。
>> 米ソの核ミサイル軍拡年表

核兵器の開発競争により、全面核戦争の危機

第二次世界大戦後のアメリカは、経済的な優位に加え、原子爆弾の保有で軍事的にも他国を圧倒していた。
しかし、冷戦の進展に危機感を募らせたソ連もこの新型爆弾の開発を急ぎ、1949年には原爆実験に成功する。
以後、水素爆弾大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発といった軍拡競争が続くと共に、米ソ以外にもイギリスやフランス、中国が核保有国となっていった。
(現在では、インド、パキスタン、北朝鮮等も核を保有している)
核兵器時代の到来に直面した人々は、核戦争による人類滅亡の可能性を指摘したが、その懸念が現実になろうとした時期があった。
1962年のキューバ危機である。

社会主義者 フィデル・カストロ

ことの発端59年のキューバ革命に遡る。
親米バティスタ政権を倒したカストロ首相が農地改革や米系企業の国有化を進めた。
これを受け、アメリカ政府は、ラテンアメリカ諸国に次々と反米・社会主義国家が誕生する事を恐れた為、キューバからの砂糖輸入量を削減する経済制裁を発動する。
61年には大統領に就任したケネディの下、国交断絶に至った。
さらに、アメリカが亡命キューバ人部隊によるキューバ侵攻作戦(ピッグス湾事件)を支援して革命政権の転覆を謀ると、これに対抗したカストロは、社会主義宣言を発して、ソ連と関係を深めた。

核保有大国同士が一触即発の危機

そして62年10月16日、米軍偵察機の情報により、キューバにソ連のミサイル基地が建設されている事実が発覚する。
これに対し、ケネディがミサイルの搬入を阻止すべくキューバを海上封鎖した事で、核保有国である米ソ両大国が、キューバ沖の海上でにらみ合う状態となった。

両国共に核ミサイルを撤去

最終的には、ソ連のフルシチョフ首相が、トルコにあるアメリカのミサイル基地の撤去や、アメリカのキューバ不侵攻等を条件としてミサイルの撤去に応じ、10月28日にモスクワ放送を通じてその旨を伝えた事で危機は回避された。
この13日間には、ソ連軍によって米軍の偵察機が撃墜されており、非常に緊迫した状況だった事が分かる。
この後、この危機を受け、63年には米・ソ両首脳の意思疎通をスムーズにするため、ホワイトハウスとクレムリンを結ぶ直通電話(ホットライン)が引かれた。

米ソの核ミサイル軍拡年表

アメリカ ソ連
核兵器保有(原爆実験成功) 1945年7月 1949年8月
実用水素爆弾完成 1954年3月 1955年11月
大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射実験 1957年12月 1957年8月
人工衛星打ち上げ 1958年1月(エクスプローラー) 1957年10月(スプートニク)
中距離弾道ミサイル(IRBM)海外配備 1961年 トルコ、イタリア 1962年10月 キューバ

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