江戸時代、江戸幕府は慢性的な財政危機を迎えていたが、幕府と同様に各地の諸藩も財政危機にさらされており、藩政改革に乗り出した。
そして、改革に成功した藩は強大な「雄藩」に成長し、後の明治維新の大きな推進力となる。
天明、天保と続いた大飢饉による農村の疲弊と人口減少は、全国諸藩の財政を徹底的に窮迫させた。
既に年貢増徴が限界に達していた各藩は、商人から膨大な借金をしていたが、飢饉による疲弊によって、借金返済の術を完全に断たれてしまう。
そこで窮地を脱するための改革が諸藩で行われた。
長州藩や薩摩藩、肥前藩などは、藩権力を絶対化し、非常手段による重商政策や農村の立て直しを行い、財政の正常化に成功した。
折しも日本沿岸には外国船が出没し、対外危機が叫ばれていた。
これらの藩は、強化された藩権力を兵制改革にあてて、幕府と対峙する力を蓄えた雄藩に飛躍した。
長州藩では、家禄50石という徴禄の家に生まれた村田清風が活躍。
全国からの荷船が通過する下関に目を付け、積み荷を担保に資金を貸し付け、利益を得た。
薩摩藩は、茶坊主出身の調所広郷を抜擢。
500万両の藩債を250年賦で返済するという非常手段で事実上踏み倒し、砂糖の専売強化や密貿易で財政再建の資金を得た。
肥前藩では、藩主・鍋島直正(閑叟)自身が改革を断行している。
全ての地主や商人から小作地を取り上げ、その一部分を地主に再給付。
残りを小作に分与して本百姓とし、農村を再建したのである。
本百姓の再生による産業振興策は、水戸藩でも強行されている。
江戸時代中期以降、全国諸藩で財政が切迫していた。
名君が登場した藩は改革を断行し、この危機を乗り切った。
1756年、ロシア船が釧路に現れ、女性を拉致して大砲を放った。
ペリーが来航する約100年前の話である。
1792年には、ロシア船が漂流民大黒屋光太夫を伴って根室に来航し、通商を求めた。
ロシアはその後もたびたび日本に来航したが、幕府は通商要求をことごとく拒否。
1824年にはイギリスの捕鯨船が紛争を起こしたため、1825年、幕府は異国船打払令を出して外国船の撃退を決定した。
しかし、その後も外国船の来航が絶える事はなかった。
そして1853年、黒船が来航する。