高杉晋作

功山寺挙兵 高杉晋作

高杉晋作

クーデターで長州藩を動かし、維新に貢献する

高杉晋作(1839〜1867年)は江戸時代末期の長州藩士。
列強の侵略に合う上海を視察し、攘夷の必要性を確信し、イギリス公使館の焼き打ち事件などの過激な事件を起こした。
長州征伐などによる藩論の動揺を不満として、隠遁や脱藩を繰り返し、奇兵隊を創設する。
功山寺挙兵でのクーデターで藩論を倒幕に動かし明治維新に大きな功績を残すが、晋作自身は維新を見ずに病死してしまう。

上海視察で、列強の強さを知る

1862年、海外視察を許されて上海を訪問した高杉晋作は、そこで西洋列強に抑圧される当時の中国社会を目にした。
「油断すれば、日本も同じ事になる」と危惧した晋作は、攘夷は日本の植民地化を防ぐ為であり、そのためには近代的な軍備が必要である、と考えるようになった。
晋作はかつて松下村塾で吉田松陰に学んでおり、物事を批評的に見る目と、実際に事を成す行動力が養われていた。

自分の考えを進言するが、受け入れられず

帰国した晋作は、藩に対して公武合体策の放棄富国強兵を進言する。
しかし、当時の長州藩は政治に対して無関心で、「そうせい候」と評された毛利敬親(たかちか)の下、重臣たちが権力を争う状況にあった。
攘夷という核はあるものの、藩の論調はこの権力争いの為に動揺を続けており、先鋭的な晋作の案は取り入れられなかった。

脱藩、隠遁を繰り返す

藩政に不満を持つ晋作は、ある時は突如隠遁したり、ある時は脱藩したりと、過激な行動を繰り返し、しばしば藩の処罰を受けそうになる。
しかし藩主の世子である毛利元徳(もうりもとのり)は晋作の才能を惜しみ、その度に許して側に置いた。
晋作がこの時期を生き延びられたのは、元徳の保護によるところが大きい。

クーデターで藩論を動かすが、自身は没する

1864年、幕府軍の進撃を受けた長州藩は、正義派(急進派)に代わって俗論派(保守派)が政権を握り、戦わずして幕府に恭順の意を示した(第一次長州征伐)。
晋作はこれを不服として、下関の功山寺で挙兵する。
遊撃隊や力士隊、奇兵隊など、かつて晋作が創立した諸隊の力を得て、絵堂大田の戦いで藩の正規軍を破った
これで長州藩は俗論派に代わって正義派が政権を握り、藩論は武備恭順(倒幕)へと転換した。
大藩である長州が倒幕に藩論を統一した事で、以後の歴史は、維新に向かって大きく動き出す事になった。



↑ページTOPへ