安政の大獄以来、鬱屈していた尊王攘夷派の志士たちは、幕府高官や外国人を次々に襲撃する。
江戸幕府は沸騰する攘夷論に手を焼き、日本は幕末の激動の時代へと突入していく。
桜田門外の変以降、幕府は公武合体、すなわち朝廷(公)と幕府(武)の協力により国難を乗切ろうとした。
これに対し、長州、土佐などの各藩から京都に参集した尊王攘夷派(尊攘派)の志士たちは、公武合体と血を血で洗う暗闘を繰り広げた。
これと前後して、尊攘派志士による外国人殺傷事件も相次いだ。
1859年7月、横浜でロシア兵が殺害されたのを皮切りに、外国人兵士や商人、外交官が次々と凶刃に倒れていった。
時の孝明天皇は、攘夷を主張してはいたものの公武合体派に近く、長州藩をはじめとする尊王攘夷の過激な行動に頭を痛めていた。
1863年8月18日、禁裏九門の一つ堺町御門の警護にあたっていた長州藩が、突然その任を解かれた。
長州藩過激派が尊攘派公家と内通し、倒幕を目論んでいた事が露顕したからである。
長州藩の解任は、公武合体派の薩摩藩が京都守護職にあった会津藩と通じ、尊攘派を京都から一掃しようと起こしたクーデターであった。
これを、八月十八日の政変という。
この政変により、三条実美ら尊攘派公家7人が京都を追放され、長州へと逃れた。
これを「七卿落ち」という。
これを境に長州、薩摩両藩の関係は、一旦は断絶状態となる。