木戸孝允

維新三傑 木戸孝允

木戸孝允

藩の対外工作に奔走する

木戸孝允(桂小五郎)が藩名で江戸を訪れたのは、桜田門外の変の直後の事だった。
表向きの役職は藩校の御用掛であったが、実質は他藩との折衝役だった。
混迷する政局のなか、長州藩が攘夷派として、幕政に影響力を持つためには、対外工作を任された木戸の役割は重要だったのだ。
なお、木戸も攘夷を持論としていたが「藩の論調が攘夷だから同調しているだけ」といった面もあり、開国を唱える開明派とも親交を持っていた。

逃げの小五郎と呼ばれた

木戸は元々、自分の立場を明らかにするのには慎重であった。
藩が攘夷論を過激化させても同調せず、謝罪恭順に動けば身を隠すなど、急進的な情勢を避けながら行動していたのだ。
この慎重さが「逃げの小五郎」と揶揄されていた理由である。
しかし、多くの長州藩士が藩内粛清や戦争で維新を待たずに死んだ中で、木戸が無事に生き抜く事が出来たのは、この慎重さのお陰だった。
藩論が倒幕に固まると、木戸は逃亡生活を辞めて帰還し、再び藩の対外工作担当として動くようになる。
木戸に薩長同盟を斡旋した坂本龍馬の事を「考えが長州藩の一般論とは違い、ずっと視野が大きくて頼もしい」と評しており、木戸はこの頃には藩論に見切りを付け、大局で物事を考えるようになったと思われる。

廃藩置県による中央集権

維新後の木戸は、政治権力を藩から取り上げて中央政府に集中させることに邁進する。
維新直後は藩勢力を温存して政治を行うという案が主流で、木戸の考えは急進的といえた。
廃藩置県を提案した理由について木戸は、幕末は各藩が牽制し合うばかりで「政治を統一しなければ日本は崩壊する」と感じていたからだと日記に記している。
中央集権構想はすでに戊辰戦争時から持っていたとされ、このような先見の明が、彼が「維新三傑」と呼ばれる所以である。

強運の持ち主

京にいた長州藩の攘夷派が挙兵計画を立て、一人が捕らえられるという事件が起きた。
八月十八日の政変以後、京都に残って藩の立場挽回を図っていた木戸は、攘夷派と善後策を図るために池田屋に集合する。
その会合の最中に、新選組に襲撃されるという事件が起こった(1864年6月 池田屋事件)。
たまたま早く来すぎた木戸がいったん宿を離れた時だった為、難を逃れたのだ。
禁門の変でも、開戦時は他藩の藩邸で説得工作を行っていた為、大事を取っている。
こういった強運もまた、木戸の特徴だった。



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