江戸時代、重税や飢饉に苦しんだ民衆はしばしば一揆や打ちこわしを起こした。
それらは次第にエスカレートしていき、幕政を脅かすに至った。
民衆による反体制運動を激化を見てみる。
江戸時代は「訴」の社会であるとしばしば形容される。
通常の訴願から直訴に至るまで、「訴」の制度が広く認められていたからである。
それは、問題の解決にあたって、中世社会のような武装した者同士による実力闘争(戦国時代など)ではない、つまり自力救済を是とする世界とは性格の異なる、新しい社会制度が形成された事を意味する。
江戸時代における百姓たちの運動は、通常、代表越訴型一揆から大規模な惣百姓一揆へ展開したとされる。
また、村役人層の村政運営を一般の百姓が追及する運動や、株仲間の流通独占に対する合法的な訴願運動なども発生した。
それらは力量を高めた民衆による、幕藩領主への不断の「訴」で在った。
これにより新しい社会システムは、その持続性を強めたと考えられている。
また大飢饉が起こると、たちまち米価をはじめとする物価が高騰して、江戸や大坂などの町民を直撃し、「打ちこわし」と呼ばれる暴動が発生した。
1787年には江戸の米屋の米屋約1000軒が襲撃され、数日間にわたって無政府状態になったという。
これを天明の打ちこわしという。
江戸時代の一揆は、はじめは代表者による直訴が多かったが、次第に集団による蜂起へと発展していった。
江戸時代の農民は、たびたび起こった飢饉に苦しめられた。
中でも最大といわれるのが天明の飢饉である。
1782年、東北地方を中心に冷害が起こった。
翌年には、浅間山が大噴火し、溶岩流による死者は2万人余り、降灰被害は10余国に及び、冷害と相まって大飢饉に発展した。
麦も稲も殆ど結実しない完全な凶作で、被害は北へ行くほど酷かった。
弘前藩では1783年から84年に掛けての餓死者が8万人を超え、田畑の3分の2が荒地となったという。
仙台藩は餓死者4万人、総高の9割の減収であったとの報告が残っている。
飢饉がその後もしばしば発生している。
1833年からは、冷害による天保の飢饉が始まり、7年間に及ぶ全国的な大凶作となった。