秀吉から関東へ移された家康であったが、結果的に、荒れ果てていた関西の森林に見切りをつけることとなった。
長く続いた戦乱と繁栄の繰り返しで、関西の森林は壊滅状態だったのだ。
人が生きるには建材としても熱量としても必ず木材が必要であったため、森林消費と深刻な課題であった。
家康は関東と、さらには全国の森林地帯を確保する事に成功する。
家康が関西を離れたことで得をした理由がここにもあった。
関ヶ原の戦いに勝った家康が、箱根を越えて江戸という田舎に帰った理由は、複数あったであろう。その一つに「関西の限界を見ていた」からだいえるのではなかろうか。
例えば、関西の限界とは何か。それは森林の枯渇と崩壊に他ならない。
当時、関西では森林が崩壊し、文明を支える森林エネルギーは限界だった。
いうまでもなく、木は一度切ってしまえば再び育つのに数十年は時間がかかるため、遠慮なしに切り続ければやがて不足してしまうのだ。
少なくとも古墳時代には日本の政治の中心は関西であった為、当時は日本でもっとも関西の森林が不足していたと考えられている。
家康が江戸幕府を開くまで、日本の中心地は長らく奈良(平城京)や京(平安京)であった。
天皇が住む京都を中心に宮廷、寺社、城などの重要建造物が数限りなく建てられたが、その材料となる木材は森林から巨木を伐採することになる。
戦国時代から安土桃山時代の頃には、巨木伐採圏は近畿地方から中部・中国・四国へと一気に拡大した。
巨木が切り出されると、人々は山に入り、建材の木材はもちろん、火を起こすための燃料の木材を伐採してゆく。
人々は立木がなくなるまで伐採し、こうして森林は消失する。
戦国時代、大名たちは壮大な城や城下町を築き、戦闘用の砦を築いては戦いで燃やしていた。特に、その主戦場となった関西では築城技術が発達し、城は巨大化してさらに多くの木材が必要とされたのだ。
1600年ごろになると、人であふれかえった関西の木材需要は森林の再生能力をはるかに超えていた。
秀吉は天下を統一すると、全国の大名に木材を提供させたという。関西の森林がいかに枯渇した状態だったかが分かる。
家康は当然、関西の森林の荒廃ぶりを何度も眼にしていただろう。
秀吉から江戸への移封を命じられたとき、徳川家臣団はさぞ嘆き悲しんだであろうがが、、家康みずからは緑豊かな江戸に活路を見出した。
森林エネルギーあふれる関東であれば、やり方によっては秀吉政権に十分対抗して行けると考えたかもしれない。
やがて家康が天下を取ると、泰平の世が訪れたことで江戸の人口が急増し、最盛期には百万人に達した。
建材、家具、道具、燃料などで年間一人あたり20本の木が必要だったと仮定すると、江戸だけで年間2000万本が必要だったことになる。
人口の増加による関西の森林崩壊を知っていた家康は、日本全土のエネルギー資源を手に入れた。
関東のほかに中部の木曽川に尾張徳川家、紀州の紀ノ川に紀州徳川家、北関東の那珂川に水戸徳川家と、いわゆる「御三家」を置いて川沿いおよび山林を押さえている。
また、全国の主要な山林地帯、筑後川、天竜川、雄物川などの上流山間部を天領(幕府の直轄地)として押さえた。
そして、切り出した木材を江戸に運搬する水運網も整備した。
こうしてエネルギーを注入された江戸が発展しないわけはなかった。
だが、江戸は巨大都市になりすぎ、全国の森林は食い尽くされ、幕末には日本列島の山々は見渡す限り荒涼とした禿山になってしまった。
ペリーの黒船来航以来、日本は森林エネルギーに別れを告げ、石炭や石油によって世界最先端の工業国家へとのぼりつめた。
だが、石油が有限である以上、石油の価格が高騰すれば日本の存在も脅かされ。その危機は全世界に及び、やがて地球規模となる。エネルギーはいつだって有限であり、その維持は課題なのである。
エネルギーが他の資源に移ったことで森林伐採も減少し、現在の日本では豊かな緑が戻っている。ただし、その代償に花粉症などの新たな弊害も生まれてしまった。関東移封でも嘆かなかった家康も、その後の歴史をみれば嘆いてしまうかも知れない。