江戸城と城の構造

江戸城

江戸城と城の構造

江戸城と歴代の将軍たち

初代・家康から十五代・慶喜まで、260年にわたり、300諸候を従えた歴代の徳川将軍たち。
彼らは江戸城で、どんな毎日を送り、どんな仕事、どんな食事をとっていたのか?

江戸城の場所、構造

江戸時代、将軍が住んでいた江戸城は、現在皇居のある場所(東京都千代田区千代田1-1)にあった。
ただし、今の皇居よりもさらに敷地が広く、外堀、内堀と二重の堀で囲まれている場所は全て、江戸城の範囲とされていた。
外堀から内堀までの範囲には、武家屋敷や寺社、町屋が並ぶ城下町が形成されていて、さらにその内側、総面積30万7000坪の広い土地に本丸、二の丸、三の丸、西の丸吹上、北の丸などの郭(くるわ)が構成されていた。

二の丸と西の丸

例えば、二の丸は、将軍が亡くなった後に、その将軍に仕えていた側室たちが生活する場所だった。
西の丸では、将軍を辞して隠居した大御所や将軍の世継ぎが暮らしていた。
また、「紅葉山」という山もあった。徳川家康をはじめ、歴代将軍の霊廟があった場所だ。
名前のとおり、秋になり紅葉が始まると、山全体が燃えるように赤く色づいたという。

本丸にある建物

現役の将軍が住んでいた場所は、本丸である。
本丸には本丸御殿と、明暦の大火で焼失するまでは天守閣があり(焼失後は天守台のみ)、御殿には「表」「中奥」「大奥」の3つに分かれていた。
「表」と「中奥」は、男性のみが入れる場所で、女性の立ち入りは禁止されており、逆に大奥は、男性禁止の女性のみが居る空間であった。

「表」

「表」には、将軍の謁見などが行われる「大広間」「白書院」「黒書院」などがあった。
そして、その大広間と白書院の間には、「中心蔵」で、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬り付けたといわれる「松の廊下」が結んでいた。

その他、警備に当たる勤番武士のいる部屋や、諸大名が詰める座敷などがあったが、役職や官位、また城持ちか、城を持っていないか等の家格によって詰め所や控えの間が決められていた。


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