武士と武家屋敷

武士と武家屋敷

武士はどんな屋敷に住んでいた?

江戸時代、武士は武家屋敷の地域に住み、町人は町屋の地域に住んでおり、お互いの生活の場が区分けされていた。
町人が武士の家に住む事は出来ないし、当然、武士が町屋に住む事も許されなかったのだ(浪人は例外)。
江戸城の武家屋敷には、大名から下級武士まで、沢山の武士が済んでいた。
当然、武士が住む屋敷には、禄高に応じて大きな差があったようだ。

町人の家

武士の屋敷が、非常に広い敷地を誇っていたのに比べて、町人の家は非常に狭かった。
例えば、待ち人の大半が住んでいた「裏長屋」の広さは、畳に換算するとたったの六畳であった。
その六畳間の中にも、玄関や台所、そして普段暮らす空間も含まれているわけだから、一人暮らしでも、極めて手狭である。

武家屋敷

町人の家に対し、武家屋敷は、100俵以下の御家人でも200坪、300石(俵)の旗本なら500坪、10万石の大名なら7000坪という広大な敷地に屋敷を構えていた。
その敷地の中には、多くの家来が住み込んでいたので、それなりの広さが必要だったのだ。
例えば、家禄300石の旗本なら、500坪の敷地の中に、母屋と使用人の住む平長屋が建てられ、厠(便所)や風呂、井戸が二つずつあった。
そこで、門番、槍持ち、中間、若党、草履取り、用人、下働きなど、およそ10人と、旗本の家族が暮らしていたのだ。

武家の格式は門で分かる

それらの武家屋敷の格式は「門構え」によって一目で分かった。
徳川家臣の場合、左右に扉が開く「開き門」を構えていれば、禄高の高い低いに関わらず、旗本であり、門ではなく、木戸の屋敷なら、御家人の住まいである。
さらに、門番が居れば300石以上の旗本で、門番がいなければ300石以下、というように、入り口を眺めるだけで、その武家の事である程度分かったのだ。

徳利門番とは

なお、門番のいない旗本のは、門に並んだ通用口の扉に鎖を付け、その先に砂利を入れた徳利(とっくり)をぶら下げていた。
この徳利は自動ドアに近い役目を果たしていた。
押せば開くが、手を離せば自然に扉が閉まるという仕組みになっていた。
武士ではなく、徳利が門番の役目を果たしている事から「徳利門番」と呼ばれていた。


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