大伴部博麻

愛国者・大伴部博麻

大伴部博麻(おおともべのはかま:生没年不詳)は飛鳥時代、筑後国上陽東S(かみつやめぐん)出身のヤマトの兵士である。
白村江の戦いに参加したの後、唐によって捕虜となっていた。

持統天皇の勅語

大伴部博麻の碑には以下の言葉が記されている。
右の柱には「尊朝愛国」、左の柱には「売身輪忠」。
これは持統天皇が持統4年(690年)に大伴部博麻に与えた勅語である。
(日本書紀:第三十三巻持統天皇より)

一個人に与えたられた唯一の「勅語」

これまで、一個人に与えたられた「勅語」は、これ以外に存在しない。
また、この勅語にある「愛国」の文字は、持統天皇が初めて用いた国を思う言葉でもある。
勅語の意味は「我はお前が朝廷を尊び、私の国をを思い、己を売ってまで忠誠を示した事を嬉しく思う」と云う意味である。

友好国の百済が滅ぶ

西暦660年7月、朝鮮半島では「唐・新羅」の連合の前に「百済」が滅ぶ。
旧百済の遺臣「鬼室福信」らは、661年、百済の再興を掛けて「倭国(日本)」に居る百済の「豊璋王」の擁立と併せ救援を倭国(日本:斎明天皇7年)に救援を要請。

大陸の戦いに従軍する博麻

中大兄皇子(天智天皇)を中心とするヤマト朝廷は全国から兵を集め、661〜662年、三派に亘り五万の援軍を送る。
この日本軍の中に、大伴部博麻も従軍しており、「人軍丁(詔軍丁)」として百済へ出征した。
なお、「部」は古代の部民制であり、博麻は豪族「大伴氏」に属する何らかの職業集団の一員であったのであろう。

白村江での敗戦

天智2年8月(663)「白村江の戦い」では、その気象、地形に不慣れだった日本軍は、唐の「水軍」の前に一昼夜にして軍船の大半炎上壊滅する。
白村江は日本軍の血で赤く染まったという。
翌年、日本では唐・新羅の侵攻を警戒し、天智3年(664年)に九州北部に水城を気付いている。(筑紫、築大堤貯水名曰水城)

捕虜として連行される博麻

博麻は捕虜として唐軍に取られられ後、「長安(西安)」に連行される。
長安には遣唐使として遣わされたが、捕虜として連行されていた土師富杼、氷老、筑紫君薩夜麻、弓削元宝らがいた。
白村江で日本が負けた事により、捕虜と看做されたようだ。

唐が日本を攻める計画を知る

長安に連行された博麻らは、捕虜とはいえ拘束されること無く自由に長安を往来できた。
その為、彼らは長安においてしっかりと情報収集を行っていたようだ。
そして博麻らは「唐が倭国(日本)を攻める計画」を持っている事を知る。

自分を犠牲にし、日本を守った博麻

この事実ををヤマト(日本)に知らせなければと、博麻は自分を「奴隷」に売り、他の四人を日本に帰す事を「土師野富刀vらに相談する。
緊急事態を知らせることを決意する。
「博麻」の作った資金を基に四人は衣服、食料、旅費を準備、ヤマトへ向かった。
天智10年(671)頃、四人は対馬に着いた。
この事は直ちに「筑紫國大宰府政庁」に伝えられる。

博麻が日本へ帰って来る

奴隷として長安に留まった博麻はそれからおよそ20数年、知り合いの「唐人(外交官、新羅使とも)」から倭国に行くが一緒に帰るかと声をかけられる。
そして、持統4年(690)十月乙丑(二十二日)に博麻は30年という時を経て日本に帰ってくる
持統天皇・天武天皇13年12月(684年)に土師甥を迎えた際の例に準じて新羅使らを饗応することを、河内王らに命じた。

持統天皇より勅語を賜る

持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を務大肆従七位下に任じ、絹を四匹(一匹=四丈)、綿を十屯、布を三十端、稲を千束、水田を四町与えた。
また、子孫三代にわたっての税の免除を約束し、勅語を送った(「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」)。
この勅語は「愛国」という単語の語源となったものであり、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語である。
第二次世界大戦時の日本で博麻は愛国心の象徴的存在として崇められ、各地で喧伝された。

同姓の人物 大伴部赤男

大伴部赤男(おおともべのあかお)について、博麻との関係は不詳だが出身地が異なり、両人とも生没年不詳。
『寧楽遺文』によれば赤男は武蔵国入間郡の人で、神護景雲3年(769年)に西大寺に墾田を四十町、林を六十町、商布を千五百段、稲を七万四千束献上した。
宝亀8年(777年)に外従五位下に昇った。
赤男の階位は「外従五位下」、博麻の階位は「従七位下」であり、赤男の方が階位が高い。
もしかしたら、赤男は博麻の子孫であったかも知れない。


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