孝徳天皇

第36代・孝徳天皇

日本史上、重要な時代を治めた天皇

第36代・孝徳天皇は先代・皇極天皇の同母弟で、即位前の諱は軽皇子(かるのみこ)と呼ばれた。
軽皇子は蘇我氏が滅んだ直後に、先代・皇極から天皇の座を譲り受けるが、これは日本初の譲位としての即位であり、天皇の権威の強大化を象徴するモノであった。
大化の改新などの政治改革を行い、日本初の元号(大化)の制定もなしている。
都(宮)を飛鳥から難波長柄豊碕宮に遷すが、孝徳が存命のまま再び飛鳥に遷都され、そのまま難波宮で崩御した。

蘇我氏滅亡の直後に誕生した天皇

初めての“譲位”によって即位

孝徳天皇の即位の直前に乙巳の変(645年7月10日)が勃発、蘇我入鹿が討たれ、同時に父の蘇我蝦夷が自害した事で蘇我氏本宗家が滅んだ
乙巳の変を主導した中大兄皇子らの推挙もあって、事件の翌々日に軽皇子が第36代・孝徳天皇として即位した。
このとき、先帝・皇極天皇はまだ存命であったため、初の譲位(天皇が存命中に皇位を譲ること)であった。
※皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとしていたが、中大兄が辞退している

日本史上、重要な改革を行った

大化の改新

孝徳天皇の治世で起こった代表的な出来事として、大化の改新が上げられる。
乙巳の変の後、大王(天皇)の権威は更に強力になったが、そのため、政(まつりごと)、つまり神事における祭りと政治を一人で取り仕切るようになっていった。
この時代は後の時代の様に二つの“まつり”を別々の人々が担当するのではなく、天皇がリーダーシップを発揮していた時代であった。

律令国家へとしての歩みを進める

大化の改新で大きかった事は、土地と人を国家が所有する「公地公民制」、国家が条件を決めて田地を民に貸し与え死後に返させる「班田収授法」、地方に国司を派遣し税(租庸調)を納めさせる仕組みを作った事だろう。
朝廷から地方に置かれた役人には国司郡司はの二種類があるが、国司は「中央から派遣された貴族」郡司は「地方の有力な豪族が任じられた」である。

日本初の元号の制定

また、孝徳天皇の時代には元号の制定もなされている。
それまでは「〇〇天皇〇年」というふうに天皇の諡号を元号代わりに使用していたが、孝徳の時代に初めて「大化」という元号が出来ている。
「大化元年」は西暦645年である。
※元号の使用が定着するまでしばらく時間を要しており、文武天皇の「大宝」から元号が定着する

難波へ遷都

孝徳は都(宮)を飛鳥から難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)に遷している。
もとは中大兄皇子らによって企画され652年に完成する。
しかし、この都はあまり長続きはせず、686年(朱鳥元年)の正月に建物群は全焼してしまった。

神祇伯

諸説あるが「神祇伯」に関しても孝徳天皇の時代を起源とすると云われる。(690年(持統天皇4年)を起源とするとも云われる)
神祇伯とは、宮中で様々な神事を行う専門の神官で、中臣氏・藤原氏・皇族などが代々継承していった。(明治まで)

遣唐使

厩戸皇子(聖徳太子)の時代に初めて遣隋使が派遣されたが、孝徳の時代では隋が滅び唐の治世となっていた為、引き続き遣唐使が派遣された。
また孝徳の在位中、高句麗・百済・新羅から使者が訪れている。

国防

東北の蝦夷に対して、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えたという。
これが歴史史料において「城柵」と「柵戸」の初出である。

中大兄皇子と関係悪化

難波宮に置いてきぼりにされた孝徳

諸説あるが、難波宮に遷った後に、孝徳と中大兄皇子の間に衝突が起きたようだ。
中大兄が孝徳に対して倭京への遷都を求めたところ、これを孝徳が拒否してしまう。
孝徳の態度に中大兄は反発し飛鳥へ帰ってしまうが、そのとき、王族(皇族)と豪族の大部分が中大兄皇子に着いて行ってしまった。
この中大兄が飛鳥へ帰ってしまった出来事が、事実上の難波から飛鳥への再遷都であった。
難波に置いてきぼりにされてしまったのだ孝徳は気を落とし、そのまま病んでしまったという。

孝徳は難波宮に残って崩御

654年(白雉5年)、在位9年、難波宮にて59歳で崩御した。
孝徳の次には、先代の皇極天皇が斉明天皇として再び即位した。


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