上田合戦(第一次)

上田合戦(第一次)

徳川と真田の戦い

戦略に長けた真田氏

第一次上田合戦は、信濃国の上田城(長野県上田市)周辺と、その周辺を流れる神川付近で行われた真田氏と徳川氏の戦い。
徳川家康鳥居元忠ら7000人の兵を派遣して上田城を攻撃させたが、真田昌幸の巧みな戦略によって上田城内に誘き寄せられ、待ち構えていた真田軍から大打撃を受けた。
徳川軍は大混乱に陥り敗走するが、その途中で神川を渡る必要があり、昌幸はそこにも罠を仕掛けていた。
昌幸は合戦の前に、あらかじめ神川を堰き止めて敵が渡河中に決壊させるという方策をとっていた。
真田信之軍に神川渡河地点まで追い詰められた徳川軍は、多数が濁流に飲み込まれた。

領地を巡って徳川と真田が対立

武田信玄に仕えていた真田氏

真田郷(長野県東御市)の豪族・真田幸隆の3男として生まれた真田昌幸は、人質として武田信玄に差し出されたが、信玄は昌幸の才能に着目し、「我が眼の如し」と称賛したという。

信長の死後、真田領が空白地帯に

1582年、織田信長本能寺で横死すると信濃一帯の抗争は激化する。
真田の領地を狙い、東から北条氏が、北から上杉氏が、南からは徳川氏が迫って来る。
家督を継いだ昌幸は、領地を維持する為に北条氏に付く事を選ぶ。
しかし、その後、徳川家康に好条件を示されて寝返っている。

大大名らに翻弄された真田

一度は徳川に付いた真田であったが、その後、家康と北条氏が和睦を結び、家康が真田に安堵したはずの沼田(群馬県)を北条領としてしまったのである。
自分の知らないところで、頭ごなしに領地を取り上げられてしまった昌幸は、徳川からの離反を決意する。

昌幸が上田城を築城

1583年、昌幸は、千曲川河畔の上田に新しい城を造り始めた。
ここは千曲川の段丘が絶壁となり連なっている場所で、それを利用して築いた上田城はそれぞれの曲輪が崖上に置かれた上に、千曲川を利用した水堀に囲まれた天然の要害であった。

家康が上田城への攻撃を開始

1584年、家康は昌幸に対して北条方との和睦を迫る。
それに応じようとはしない昌幸に対して家康は、昌幸の謀反を予期して出兵の準備に取り掛かる。
そして1585年閏8月2日、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを先鋒として、上田城を攻撃させた。

昌幸の戦略が徳川軍を翻弄

数で劣る真田が知略を張り巡らす

上田城攻めに動員された徳川軍は約7000人、昌幸軍は2000人余りであった。
圧倒的な不利な状況のなか、昌幸は徳川軍撃退の為に、数々の罠を仕掛けていた。

“敗走”に見せ掛け、敵を誘き出す真田

先ず、上田城近くを流れる神川に徳川軍が差し掛かったところで、斥候部隊(敵の動静・地形などを探り監視する部隊)に襲い掛からせたのである。
不意を突かれた徳川軍は混乱するが、すぐにこれを撃破。
上田城へ向かって敗走する部隊を追撃した。
上田城内に駆け込んだ徳川軍は大手門、二の丸、三の丸と大した苦労もなく突破して本丸へと攻め込むが、これが昌幸の仕掛けた罠であった。

最初から“城内で仕留める”作戦

あらかじめ本丸で待ち構えていた真田軍が背後から徳川軍に襲い掛かる
城内の真田軍は徳川軍を目掛けて巨石や大木を落とし、鉄砲の雨を浴びせ掛けたのだ。
恐慌状態に陥った徳川軍は曲輪の外へ逃げ出そうとするが、侵入した時には無かった「千鳥掛けの柵」に邪魔をされた。
さらに放火による煙で視界が利かず、徳川軍は思うように進む事が出来なかった。

真田流“水攻め”

神川を渡る徳川軍が濁流に飲まれる

辛うじて城外に脱した徳川軍が神川を渡ろうとしたとき、真田軍は神川上流に予め築造していた人口堰を決壊させる。
濁流は一気に川を下り、渡河中の徳川軍を飲み込み、多数の兵士が溺死した。
水かさが増した神川を渡れずに留まっていた徳川軍は、昌幸率いる部隊の攻撃を受け、さらに被害が拡大。
この戦いにおける死者は真田軍40人に対して、徳川軍は1300人に上ったと云われる。

家康が上田から撤退

その後、真田方の丸子城を巡って再び真田と徳川との間で戦が勃発する。
これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、20日間程対陣を続けるが、真田への援軍として上杉軍が参戦する。
さらに家臣の離反が重なった家康は、11月に上田からの撤退を決意。
こうして上田合戦は終了した。

第一次上田合戦後の情勢

徳川・真田ともに秀吉に臣従

この戦いの後、昌幸や家康、上杉氏は豊臣政権に臣従する。
関東の後北条氏が滅んだ後、家康は関東に移封されるが、慶長3年(1598年)に秀吉が死去。

秀吉の死後、再び徳川と真田は対立する

豊臣政権では家康の影響力が強まるが、これに対抗して石田三成が台頭。
家康率いる東軍と三成率いる西軍による関ヶ原の戦いが勃発するが、その局地戦において、再び徳川と真田は相まみえる事となる。

真田昌幸像

真田昌幸像(長野市松代町の原氏所蔵)
二度も徳川軍を破るも、関ヶ原の戦い後は高野山(和歌山県)に蟄居となり、その地で亡くなった


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