関東への国替えで冷遇された徳川家康は豊臣秀吉の死後、有力大名で豊臣秀頼を包囲する。
家康は、近畿を中心に、秀頼が居座る大坂城を包囲する形で徳川家による巨大城塞群を築いた。
それぞれを豊臣恩顧の大名に手伝わせて普請したことで、豊臣系大名の力を削ぎ、なおかつその城が豊臣家を縛るという一石二鳥の政策であった。
豊臣包囲網は文字どおり壮大な規模で実施された。
徳川家が完全に天下を掌握し、大坂の豊臣家を追いつめ滅ぼしにかかった。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでの勝利によって、徳川家康は事実上、天下を掌握することとなった。
さらに慶長8年(1603)には征夷大将軍となり、江戸幕府を開府。もはやその地位は盤石なものとなった。
しかし全国には未だ豊臣秀頼を主君として仰ぐ諸大名も多く、家康自身もまた豊臣秀頼を主筋として敬う姿勢をとり続けていた。
そうせざるを得ないほどに豊臣家の影響力が依然として存在していたのである。
そんな状況下で、家康は次々と諸大名の配置替えを指示し、さらには新たに城を築城するなど精力的に思い描く日本地図へと書き換えていく。
そして豊臣秀頼のいる大坂城を強く意識した大坂包囲網が着実に構築されていることが明らかとなってくるのである。
逆に、九州では加藤清正ら豊臣恩顧の大名が熊本城などの城を構え、徳川家との決戦に備えていた。
慶長11年(1606)、内藤信成を駿府から長浜城へと移すと、家康は入れ替わりに駿府城に入っている。
以後、松平康重を丹波篠山城に、丹波亀山城に岡部長盛を入れ、西方の抑えとして池田輝政に姫路城の改修を命じ、東方には伊勢亀山城に松平忠明、伊賀上野に藤堂高虎をそれぞれ配置した。
いずれも家康譜代の大名、あるいは家康が信頼を寄せる人選である。
この大坂包囲網の輪はそれだけではなかった。
さらに広範囲に見ていくと、家康が如何に大坂城を恐れ、その影響力に脅威を抱いていたのかをうかがい知ることができる。
彦根城の井伊直政は加賀前田家を牽制するため、近江膳所城の戸田一西は琵琶湖と街道の抑えとして、さらには淡路岩屋城に池田忠雄、備前下津井城には池田長政を入れて瀬戸内海を航行する船の監視をさせている。
今治城の藤堂高虎には伊予松山の加藤嘉明や広島の福島正則を牽制させ、さらには瀬戸内に甘崎城を築造させて海上の抑えとした。
大坂城を孤立化させ、包囲するだけにとどまらず、豊臣系の大名への牽制や大坂城との連携ルートを遮断するといった徹底した包囲網となっていったのだ。
また名古屋の徳川義直の居城として巨大な名古屋城を完成させ、決して逆らうことのできない徳川体制を天下に知らしめた。
かつて各大名の居城とし独立して存在していた城郭が、絶対的な権力下においては全国的な規模の一つの巨大な徳川城に変貌していった。
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