鳥取城の戦い(1581年)

鳥取城の戦い(1581年)

織田信長の命により中国攻めを行っていた羽柴秀吉が、毛利方の重臣・吉川経家が立て籠もる鳥取城を攻めた戦い。
鳥取城は標高263mの久松山山頂に築かれた城塞で、高く積み上げられた石垣に多門櫓まで備えており、高い防御力を備えていた。
秀吉は鳥取城を攻め落とす為に兵糧攻めを展開。
兵糧攻めに際し、羽柴軍は近隣の農民を攻撃して、鳥取城内に追い込み“城内の兵糧が早く尽きるよう促す”という徹底的な戦術をとっている。
経家は城兵の助命と引き換えに自刃するが、その被害は極めて凄惨なものであった。

鳥取城籠城戦

鳥取城籠城戦
兵糧攻めによって食糧が尽きた鳥取城内では、木の根や葉、軍馬などあらゆるものが食べ尽くされたという

鳥取城の戦い・略歴

雁金城
近隣の丸山城から鳥取城へ食糧が補給されるのを遮断する為、羽柴方の宮部継潤が雁金城を落城させ、鳥取城への補給が断たれる
鳥取城の落城
食糧が尽きた鳥取城内は飢餓状態となり、餓死者が続出、城主の吉川経家は降伏し、自刃する。

飢餓に追い込まれた鳥取城

一度は降伏するも、城主が追放される

三木城の「干殺し」から半年後、羽柴秀吉は因幡・鳥取城攻めを開始する。
秀吉は城主・山名豊国に「降伏すれば因幡一国を安堵する」と申し出た為、豊国はあっさりと降伏した。
しかし、豊国の降伏を家老・森下道誉中村春続を受け入れず、豊国を追放した。
秀吉に対して徹底抗戦を選んだのである。

吉川経家が鳥取城に入る

森下らは毛利氏の山陰方面の責任者であった吉川元春に「新しい城主を送って欲しい」と申し入れる。
これに応えて鳥取城に送り込まれたのが吉川経家であった。
経家は、吉川一門の中でも文武両道に優れた武将であったという。
鳥取城に入った経家は、この時とき自らの首桶を用意していたとされ、その決死の覚悟を窺う事ができる。

経家が兵糧攻めに備えて食糧調達

1581年3月18日、経家は約400人の家臣を連れて鳥取城に入った。
鳥取城は標高263mの山上にある為、攻め込むのは容易ではない。
経家は、秀吉が兵糧攻めに出る事を予想し、籠城戦に備えて兵糧集めに乗り出す。

先に食糧を奪っていた秀吉

兵糧集めに乗り出したが、経家は思ったように米が集める事が出来なかったという。
秀吉が開戦前に高値で米を買い占めてしまっていた。
さらに秀吉は全長12qにわたる包囲網を構築し、鳥取城への補給路であった雁金城を攻撃。
鳥取城は完全に孤立した。

凄惨極まる兵糧攻め

秀吉は、鳥取城周辺の農民へも攻撃を加えて、鳥取城へ追い込んでいった。
このため、城内の人数は約4000人にも上ったといわれる。
このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、兵糧は直ぐに底を尽き、草の根や木の実、木の皮などあらゆるものが食べ尽くされた。
その凄惨たる様子を『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。

鳥取城・降伏

経家は3カ月以上持ち堪えが、これ以上の籠城は無理と判断し、秀吉に自分の命と引き換えに城兵の助命を申し入れた。
秀吉はこれを受け入れ、10月25日、経家が切腹した事で、籠城戦は終わった。

助命を拒否した経家

秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取るのは森下道誉・中村春続だけでよく、経家は帰還せよの意思を伝えた。
しかし経家はそれを拒否し、意志を変えなかった。
困惑した秀吉は信長に確認をとり、信長は経家の自害を許可した。
辞世は「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん 」であった。


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