天正伊賀の乱

天正伊賀の乱

天正伊賀の乱は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦い。
天正6〜7年(1578〜1579年)の第一次天正伊賀の乱、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱と二度の戦いが行われた。

信長の次男・信雄が伊賀を制圧

織田信長の次男・織田信雄は約8000の軍勢を率いて伊賀に侵攻するも、伊賀衆に敗北を喫する。
そして信雄は、約5万といわれる大軍を率いて、二度目の伊賀侵攻に取り掛かった。
織田軍は各地で伊賀軍を破り、約2週間で伊賀を制圧、織田軍は老若男女の尽くを無差別に攻撃した。
ほぼ伊賀の全域が織田軍によって制圧された。

織田信雄−総見寺蔵

織田信雄画像 総見寺蔵
信長の次男で、伊勢北畠氏の養子となっていた

織田に徹底抗戦した伊賀の忍者

忍者の興り

忍者の始まりは聖徳太子の側近・大伴息人(おおとものそくじん)と云われる。
その後、忍術が発展したのには役小角(えんのおづぬ)が始めたとされる修験道が大きな役割を果たし、忍術が整ったのは源平初期の「義経流(ぎけいりゅう)」と南北朝の「楠流」とされる。
そして、忍術の宗家・服部氏が北伊賀で、百地氏が南伊賀で興ったのは源平争乱期と云われる。

忍の里、伊賀

伊賀(三重県西部)は鈴鹿・笠置山系の山々に囲まれて外界と隔絶されているものの、京都からは80qほどしか離れていない。
また、古代より軍勢の進路にもなれば、敗戦兵たちの潜伏地にもなった。
こうした立地から伊賀は戦時に情報収集などで活躍する忍者の里となったのだ。

伊賀国

伊賀国-Googleマップより

信雄の伊賀攻め

伊賀に内通者が出る

1576年、信長の次男・織田信雄は北畠一族を降して伊勢(三重県)を掌握すると、伊賀攻めに取り掛かった。
1578年2月、伊賀の郷士(農村に土着した武士)がその為の手引きをすると持ち掛ける。
信雄は同年3月に滝川雄利に北畠氏が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。

伊賀衆が織田勢を急襲

信雄によって修築された丸山城は規模壮大で、これに驚いた他の伊賀衆は徹底抗戦の構えを見せる。
「完成までに攻撃すべし」と集結した忍者たちが総攻撃を開始、不意を突かれた滝川雄利らは混乱し敗走している。

信雄の大敗に信長が激怒

翌年、信雄は約8000の軍勢を率いて伊賀に侵入したが、地形が複雑なうえに、神出鬼没な伊賀衆の攻撃に翻弄され、伊賀から敗走する。(第一次天正伊賀の乱)
信雄は重臣を討たれるなど被害は甚大で、信雄の敗走を知った信長は激怒、「親子の縁を切る」と言うほどであった。
この敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱く事となる。

第二次天正伊賀の乱

1581年9月3日、信雄は約5万人の軍勢を率いて再び伊賀に侵攻、6日から戦闘が再び開始された。
伊賀の忍者たちも応戦し奮闘するが、伊賀方の城は次々と落とされ、11日には百地丹波が立て籠もる柏原城が落城した。
この戦いの前に織田方は伊賀衆は調略を仕掛けており、伊賀方に内応者が出て連携を欠いていたという。
そして、伊賀国のほぼ全域が制圧された。

寺院や住民も戦いの犠牲に

忍者たちが生活していた忍者屋敷は、外観こそ農民の住居と変わりなかったが、侵入者を攻撃する為の仕掛けやカラクリなどが備えられていた。
その為、織田方にとっては、忍者と住民の区別がつかず、多くの住民までが殺害され、村や寺院までも焼き払われてしまった。
戦闘に加わった残党らも徹底的に捕縛され殺されている。

乱の後

信長が伊賀国を配下に与える

10月9日には信長自身が伊賀国に視察に訪れている。
信長は阿拝郡、伊賀郡、名張郡を滝川雄利に、山田郡を織田信兼にそれぞれ与えた。

伊賀の忍たちは各地へ

この戦いによって多くの忍者が伊賀を去り、各地の武将に仕える事になったと云われている。
ほとぼりが冷めた頃に帰国し、その後も伊賀に住み続けた者もおり、多くの子孫が現在も伊賀で生活している。


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