忍城の戦い

忍城の戦い

忍城の戦いは豊臣秀吉小田原攻めにおいて、武蔵国・忍城(埼玉県行田市)を巡って発生した戦い。
石田三成「水攻め」が不発に終わった事で有名。

天正18年(1590年)6月16日から7月16日に掛けて、石田三成を大将とする豊臣軍が、成田長親が指揮を執る忍城を攻める。
三成は秀吉の指示の下、忍城を「水攻め」にするが、水攻めに不向きな地形の為に攻めあぐね、落城させる事が出来なかった。
忍城が開城したのは、小田原城落城後の7月11日であった。
結果的には忍城は開城した為、戦略的には三成勝利とも言えなくはないが、戦術的には大失敗であった。

三成の水攻めが“大失敗”に終わる

“湿地”の城・忍城

秀吉の小田原攻めにおいて、関東一円にあった北条方の城は次々と落とされたが、その中で唯一落城しなかったのが忍城だ。
忍城は北に利根川、南に元荒川に挟まれた湿地帯に位置する平城であった。
城は川や沼を水掘りとし、何重もの水掘りに囲まれる地形を活かした城郭だったのだ。
“湿地帯に位置する”からこそ“水攻めに適している”と、秀吉は考えたのかも知れない。

関東七名城の一つ「忍城」

忍城は成田氏代々の居城であった。
その周囲に元荒川・星川が流れていて自然の堀をなし、関東七名城の一つに数えられる「要塞」だった。
この忍城攻めに秀吉が「水攻め」を選択したのは、恐らく“政治的”な理由であったと考えられる。
「天下人・豊臣秀吉の前では自然すらも自由自在」と、全国にアピールする事で、自身の天下統一に説得力を持たせたかったのかも知れない。

三成率いる豊臣軍は2万6000の大軍

1590年、忍城主・成田氏長とその弟・泰親は、本城である小田原城に出陣する。
その留守を預かったのが城代の成田泰季(やすすえ)であり、城内軍勢はわずか500人程であった。
それ以外に約2500人の農民や女子供が含まれていた。
対する秀吉軍は、石田三成を総大将とする約2万6000人の大軍であった。

忍城内では大将が急死する

三成は6月4日に丸墓山古墳に本陣を置くと、さっそく攻撃を開始する。
しかし、かつて上杉謙信の猛攻にも耐えた忍城は、簡単には落ちなかった。
だが、忍城内では泰季が急死してしまう。
この危機に立ち上がったのが、泰季の子・長親であった。

三成が堤防を築き“水攻め”開始

一方の三成は、備中高松城の戦いを再現しようと、城の周囲に堤防を築き始める。
ただし、これは三成の独断ではなく秀吉の命令である。
6月9日から14日の間、わずか5日で完成した堤防の総延長は約28qにも及んだ。

水攻め失敗「忍の浮き城」

この堤防内に“川の水”を率い入れると城が水に沈み始めた。
だが、肝心の本丸が沈まず、まるで城が水に浮いている様に見えたという。
恐らく、基が“湿地帯”の忍城だからこそ、大地の吸水性が高く“人工的な洪水”が起こし辛い環境だったのだろう。
また、高松城に比べて水攻めに必要な“堤防が大き過ぎた”事もあった。
そのうち大雨成田軍の工作にのより堤防が決壊し、石田軍の兵士数百人が流される被害が出てしまった。

後北条氏の降伏で、忍城が開城

堤防が決壊し、忍城の「水攻め」は大失敗に終わった。
しかし、後北条氏が降伏し、7月5日には小田原城が開城する。
これを受けて忍城も開城した。

三成は“戦下手”だった?

三成はこの城攻めに失敗したことにより戦下手の烙印を押され、評判を大きく落とす。
しかし失敗の原因は、現地の地形を知らない秀吉の命令にあり、この戦いに参加した豊臣方の大名の大半は、三成と共に“関ヶ原の戦いでも西軍”に参加している。
この戦いで三成と共に戦った人達は“三成の事を高く評価していた”証であろう。
しかし、江戸時代以降の軍記物では“三成の築城”が強調されており、「石田堤」の呼称とともに攻防戦の「歴史像」を形成していった。


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