正親町天皇

正親町天皇

正親町天皇(1517〜1593/1557〜1586)は室町後期から安土桃山時代に掛けての第106代天皇。
織田信長と豊臣政権の支援を受けて皇室の権威を再び高めた。

正親町天皇像(京都・泉涌寺蔵)

正親町天皇像(京都・泉涌寺蔵)

戦国武将と関わり深い天皇

弘治3年(1557年)に後奈良天皇が崩御したのを受け、この正親町天皇が践祚した。
この時代の朝廷には応仁の乱の影響で財政に余裕がなく、毛利元就らの献金を元に、永禄3年(1560年)に即位の礼を挙げた。

織田信長から支援を受ける

永禄11年(1568年)に織田信長が上洛(京都に入る)と、この状況に変化が訪れる。
信長が15代将軍足利義昭や周辺のライバル勢力を牽制する為、朝廷の権威を利用する方針を取ったからだ。
朝廷への資金援助を行ったり、御所の修理を買って出て、天皇と朝廷の威光を再び高めた。

信長も天皇の権威に頼った

この頃の信長は戦いで行き詰まっており、しばしば天皇の権威を利用していた。
元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦いで窮地に陥った際は、天皇の勅命で講和を結んでいる。
これにより信長は京から岐阜へ帰還し、大勢を立て直す事が出来た。

窮地に陥る度に信長に頼られた

また、天正元年(1573年)、甲斐の武田信玄が東国から迫り、京で足利義昭が挙兵して再び窮地に陥った。
そこで再び正親町天皇の勅命を取り付け、義昭との講和に成功した。
石山本願寺と10年に渡り抗争を繰り広げたが、これも天皇の勅命で講和へと至っている。

形だけではなかった天皇の権威

一方で、正親町天皇は高野山の真言宗堂塔を破壊しないように信長に伝え、破壊を阻止した事もある。
天皇の権威が必ずしも形だけのモノではなかった事が伺える。
だが、それ故に信長は天皇の存在を疎むようになり、第五皇子で信長の猶子(養子・義子)である誠仁親王(さねひとしんのう)への譲位を迫るようになったという。

本能寺の変

天正10年(1582年)、朝廷は信長を取り込むべく、征夷大将軍関白太政大臣のいずれかに任じる事を信長に提案した。
しかし、信長が正式な回答をする前に本能寺の変が発生し、信長が横死した為、この任官話は立ち消えとなった。

秀吉からも支援を受ける

信長の死後、天下を掌握した羽柴秀吉は、信長のやり方を踏襲し、黄金や御料地を献上して朝廷を政権の後ろ盾とする政策を執った。
秀吉は自らの政権の正統性を示す為、征夷大将軍になる事を望んでいた。
将軍になるには足利義昭の猶子になる必要があったが、義昭はこれを拒否している。

秀吉に「豊臣」姓を授ける

そこで秀吉は朝廷の最高職である関白の職に就いた。
正親町天皇は秀吉に「豊臣」の姓を授け、さらに太政大臣にも任じた。
これにより秀吉は朝廷の最高権力者に君臨し、また天皇の権威も高まった。

譲位と崩御

天正14年(1586年)、天皇は孫の和仁親王(かずひと:後陽成天皇)に位を譲った。
そして文禄2年(1593年)、70歳で崩御した。


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