信長の居城移動

織田信長の戦略的拠点移動

信長は何度も居城を引っ越した

清州城、小牧山城、岐阜城、安土城

織田信長ほど拠点を移動した武将は存在しない、といえるほど信長は何度も居城を移している。
那古屋から清州城、小牧山城、岐阜城、安土城と、信長は自身の天下布武の進捗に合わせ本拠を移動した。
信長の居城移動の変遷をまとめる。

天下への第一歩、小牧山城への移転

清州城を去る信長

永禄6年(1563)、織田信長は清洲城から小牧山へ居城を移している。
機動力を重視する信長らしく、最前線へ常備の馬廻りである家臣団ごと拠点を移してしまったのである。
この小牧山への移転は、美濃統一への軍事行動に向けた布石だというのが定説である。

“魅せる”城になっていた小牧山城

しかし、この小牧山城への移転は軍事以外に、政治的な理由が在ったもみられる。
2012年の発掘調査では、小牧山で幅5メートルを超える大手道の存在が確認された。
ルイス・フロイスが「日本史」の中で「石の壁」と表現した岩盤の切りたてもあり、軍事面だけではない「見せる」城となっていることが、これらから理解できる。

魅力的な城で【力量】をアピールした

このことは、まだ尾張を統一しただけの大名であった織田信長が、城郭を軍事面だけでは無く、政治的に利用しようとしていたということを表現していると言えるだろう。
この後、信長は岐阜でも安土でも居城を“魅せる”ことに拘り続けるのだ。

広い低地の中央に小牧山、そこに信長が立つ

小牧山がある濃尾平野は、古代に東海湖と呼ばれた巨大湖であった所に、土砂が堆積されて形成された低地である。
その中央に位置する小牧山は、周辺を見下ろす独立丘陵である。
小牧という地名は古来、小牧山の下まで海が迫っており、山を目印にした船乗りが帆を巻いたというのが由来である。

安土城を想わせる小牧山城の姿

低地が広がる濃尾平野に浮かぶ、シンボルマークのようであった小牧山に、後の安土城のプロトタイプともいうべき幅広い直線の大手道や石垣造りの最新技術を用いた城は、「天下布武」を掲げ、日本統一への意欲を世に示す信長の武威を示すのに、十分な効果があったと思われる。

城の作りが周囲に圧力を与え、敵の分裂を促す

小牧山城での江戸時代の城下町を先取りするような区割りがとられていた。
さらに、馬廻りの兵力を城下へ常駐させる斬新な政策は、敵対する美濃の斉藤家に動揺を与え、東美濃衆の寝返りを促している。

先進城下で家臣・商業・経済を保護

居城を政治的宣伝に用いる信長

信長にとって必要な場所が要衝となった

居城を政治に利用するという信長の行動は成功した。
信長の拠点移動の発想というのは、「その時に信長にとって必要な場所が要衝となる」というものであり、既存の交通の要衝であった清洲から、未開の地である小牧を新たな拠点として整備したのは美濃平定とその先を見据えた「天下に武政を行う」という信長の思いを、宣伝するのに効果的であった。

岐阜城

小牧の次に移した拠点である岐阜は、東と北を険しい山岳地帯によって守られている土地である。
この移動は、濃尾の地盤を固めた信長にとって、西への玄関口である関ヶ原を押さえる為のものでもあった。

信長の拠点移動は何をしたかったのか

流通の促進、市場経済の発展

信長にとって交通の要衝を抑えるというのは単に軍事的な目的だけではなく、流通の促進による市場経済の発展をも目的としていたと考えられる。
世に知られる信長の兵農分離による常備軍団を維持するために、信長は常に金を必要とした。
また、従来の住民による賦役のみではなく、市場に集まる馬借(運送業者)などを利用することで、より効率的な補給路確保も可能となった。
この後、安土に移った信長は、これら政策をさらに推し進めることになる。
>> 信長が安土を選んだ理由


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