光秀の前半生

足利義昭に仕えた光秀

明智光秀の前半生は謎に包まれている。
明智軍記』などには越前に十年いたなどと記されているが、信頼できる同時代の史料と矛盾が多い。
実際のところ、確認が出来ているのは永禄10年(1567)頃からである。
足利義昭に仕え幕臣となった頃までの光秀をみてみる。

義昭に仕えるまで謎だらけ

『明智軍記』による前半生

明智光秀は、室町時代に美濃国(岐阜県南部)の守護を務めた土岐氏の一門で、可児郡明智城(岐阜県可児市)を本拠とする明智氏の出身とされる。
また、弘治2年(1556)の内乱(斎藤道三・義龍父子の争い)で明智城を追われた後は、越前(福井県東部)の朝倉義景(1533〜1573)を頼り、長崎(福井県坂井市)の称念寺で10年余りを過ごした後、足利義昭(1537〜97)に仕えたという。

『明智軍記』は当てにならない

『明智軍記』は江戸時代中期に編纂された書物であり、光秀が生きていた当時の史料と比べて矛盾が多い。
同時代の史料からみた光秀の前半生は、現在でも謎に包まれているが、足利義昭に仕えていた事は間違いない

将軍配下の細川藤孝の家臣だった?

永禄6年(1563)から日本で活動したイエズス会宣教師のルイス・フロイス(1532〜97)は、光秀の出自を次のように記している。

宣教師ルイスフロイスの記録

信長の宮廷に「惟任日向守殿」、別名「十兵衛明智殿」と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、「公方様」の邸の一貴人「兵部太輔」と称する人に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。

光秀は将軍に仕える細川藤孝に仕えていた

フロイスの記述によれば、光秀はもともと「高貴の出ではなく」、室町幕府の将軍・足利氏(公方様)に仕える細川藤孝(兵部太輔:1534〜1610)の家臣であったらしい。
なお、上記のフロイスの言葉には続きがあり、フロイスが光秀をどういう人物と考えていたかが窺える。

フロイスによる光秀像

殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

足利義昭配下の「足軽衆」だった?

同時代の史料、将軍に仕えた武士名簿

同時代に光秀の存在が確認できるのは、室町幕府の13代将軍・足利義輝(1536〜65)と、その弟で15代将軍・足利義昭に仕えていた武士たちの名を記した『光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚』と題された史料で、義昭の「足軽衆」に見える「明智」が光秀を指すと考えられている。
なお、この史料は義輝が死去した後の永禄10年頃の状況を記したモノとされ、細川藤孝は「御供衆」という光秀の数段上の身分であった。
フロイスが記すように、光秀が細川藤孝の家臣で在った可能性は高いといえる。

間違いなく近江国にいた光秀

光秀がいつ頃から義昭に仕えるようになったのかは不明だが、近年に発見された史料によれば、光秀は永禄8年(1565)頃、近江国高島郡田中城(滋賀県高島市)に籠城していたという。(『針薬方』)

義昭が朝倉義景を頼る

このとき、義昭は兄の義輝を三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らに殺害され、若狭(福井県西部)の武田義統(1526〜67)の下に逃れていたが、後に朝倉義景を頼って越前へ移っている。
恐らく光秀は、流浪中の義昭に接近して気に入られ、足軽衆として抜擢されたのだろう。

義昭・信長と共に京都へ

光秀・義昭・信長が出会う

その前後に、義昭は細川藤孝を取次(交渉の担当者)として、尾張(愛知県西部)の織田信長(1534〜82)との間出、京都復帰に向けた交渉を進めていく。
義昭の直臣となった光秀も、この頃から藤孝の下で信長との交渉を担うようになった。

義昭・信長を光秀が仲介

永禄11年(1568)7月、義昭は信長を頼って美濃へ移り、藤孝・光秀もそれに従っている。
同年8月に信長が藤孝に宛てた書状には、「詳細は明智(光秀)に申し含めました。義昭さまによろしくお伝えください」とあり、光秀が使者として信長の元を訪れ、義昭への伝言を頼まれていた事が分る。
光秀は義昭の京都復帰に向けて、信長と義昭の間を取り持つ役割を担っていたものの、光秀と信長が互いをどのように思っていたかは分らない。
このときに信長との間で築いた人脈が、後に光秀が躍進する切っ掛けになった事は確かである。

将軍の臣下、幕臣となる

同年の10月に信長は義昭を奉じて入京し、「天下静謐(てんかせいひつ)」、つまり“京都とその周辺の平和”を実現した義昭は室町幕府の15代将軍に就任した。
光秀も京都へ入り、11月には藤孝と一緒に連歌会に参加している。
光秀はここから歴史の表部隊に登場し、信長に支えられた義昭の政権(幕府)出、自らの才能、深慮、狡猾さを発揮していく事になる。


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