光秀が織田家直臣に

光秀が義昭と離別、信長家臣に

明智光秀は室町将軍・足利義昭に仕えながらも、織田家臣としての務めも果たす両属の身であった。
しかし、次第に信長と義昭の関係が悪化、義昭が京都を追放される事によって、両属関係は解消された。
光秀が織田家直臣になる過程をみてみる。

幕臣でありながら信長から所領を

都の政務を執っていた光秀

元亀2年(1571)9月、明智光秀は織田信長(1534〜82)から近江国滋賀郡(滋賀県大津市)を与えられ、比叡山(京都市左京区・滋賀県大津市)領の管理を任される事になった。
さらに、足利義昭(1537〜97)や信長の家臣とともに、京都の支配を担当する任務も引き続いて担っている。
光秀の主な仕事は、京都の治安維持や地子銭(税金)の徴収、朝廷や公家の領地に関する訴訟などであり、義昭と信長の下で「天下静謐(京都周辺の平和維持)」を担う、重要な役割を任されていた事がわかる。

両属ゆえの苦境

だが光秀は比叡山や朝廷・公家の権益を自分の物とし、しばしばトラブルに見舞われていた。
本来、公家や寺社の紛争を解決するのは将軍の役割であったため、朝廷は義昭に苦情を申し入れ、義昭も光秀の行動を問題視していた。
この頃の光秀の立ち位置は、幕臣でありながら織田家にも仕え領土を所有し、武将としても働いていたゆえの苦境であったといえる。

出家し幕府を去ろうとした光秀

この状況に嫌気がさしていただろう光秀は、義昭の側近だった曾我助乗(生没年不詳)に「お暇を頂いて出家したいので、義昭さまの許可を頂けるよう取りなして下さい」と伝え、義昭の元を去りたいと願い出ている。
京都やその周辺で起こる問題を解決する役割を担っていた筈の光秀が、この時は光秀が問題の種となっていたのだ。

武将としての才覚を発揮し始める

その一方で、光秀は信長の命令を受けて近江を転戦し、朝倉・浅井両氏の軍勢と戦っている。
坂本(滋賀県大津市)に新たな居城を築いた光秀は、琵琶湖畔の諸勢力を味方に付け、信長から篤い信頼を得るようになっていった。
この頃から、光秀にとって幕臣より織田家臣の方が良い仕事場であったようだ。

義昭と信長の関係が悪化

義昭の行動に信長が口を出す

しかし、義昭と信長の関係が悪化した事によって、両者の間に立つ光秀は苦境に立たされる。
これまでは、信長が義昭の施政方針に度々と注文を付けており、義昭はこうした信長の行動に不満を持っていたようだ。
始めは両者とも不満を堪えていたが、元亀4年(1573)には信長と義昭の仲は完全に決裂する。

義昭が信長を裏切る

義昭の動きを察知し、信長に報告したのは、光秀と同じように義昭と信長の間で活動していた細川藤孝(1534〜1610)であった。
前年の元亀3年12月、信長の同盟者だった徳川家康(1542〜1616)が三方ヶ原(浜松市北区)で武田信玄(1521〜73)に大敗する。
これを受け、信長と共倒れになる事を恐れた義昭が、三好氏や朝倉・浅井両氏などの反信長派に寝返る事になる。
これによって完全に信長と義昭の仲は決裂する(公儀御謀反)。

信長が将軍御所を包囲

この動きを知った信長は3月10日に京都の将軍御所(京都市上京区)を包囲し、義昭と一旦は和睦。
一方、光秀は義昭に呼応した敵軍を討伐するため、近江の今堅田(滋賀県大津市)や木戸で激戦を繰り広げている。
戦いの犠牲に胸を痛めた光秀は、戦死した味方の武士18名を弔うため、同年5月に西教寺で供養を行っている。

義昭が追放され、室町幕府が滅亡

義昭と信長の和睦で京都は平和を取り戻しかけたかに見えたが、義昭は7月3日に京都を出て槇島城(京都府宇治市)に逃れ、再度、信長討伐に乗り出す。
だが、藤孝と光秀は義昭を見限って信長に付き、義昭は18日に降伏して河内(大阪府東部)へ逃れた。
ここに室町幕府は実質的に滅亡光秀は信長の家臣として活動していく事になる。

幕臣が織田家直臣に吸収

光秀家臣団が形成される

義昭が京都から没落した後、室町幕府に仕えた武士(奉公衆)たちは所領支配の関係から多くが京都に留まり、なかには光秀の下に配属された者もいた。
幕府の政所執事(財政と領地に関する訴訟を扱う役所の長官)を代々務めた伊勢貞興(1562〜82)や、御牧景重(?〜1582)などが代表格として挙げられる。
また、光秀の重臣であった斎藤利三(1534〜82)の兄・石谷頼辰(?〜1587)は幕臣の石谷光政(生没年不詳)の養子となっており、光政の娘が土佐(高知県)の長曾我部元親(1539〜99)の正室だった縁から、光秀は信長と元親の間で取次(外交の担当者)を努めている。

武将として力を付けた光秀

この他にも、光秀は義昭に仕えた山城(京都府南部)・近江の武士たちを家臣や与力(政治・軍事面で光秀の指揮を受ける存在)とし、自らの軍事力を強化していった。
後の丹波(京都府・兵庫県の一部)攻めで主力となった光秀の家臣団は、光秀が義昭から信長の元へ移った頃を境に形成された。

「両代官」として京都支配を担当

京都支配を担当

光秀は政治家・行政官としても有能な人物であった。
特に永禄12年(1569)から天正3年(1575)までの約5年間、光秀は「天下所司代」と呼ばれた村井貞勝(?〜1582)とともに京都の支配を担当する「両代官」として、行政や訴訟の対応を担当し、その能力を遺憾なく発揮している。

信長に仕えても役割は変わらず

当初、光秀の仕事は義昭の家臣として、将軍の元に寄せられる訴訟や京都周辺の問題を解決する事にあった。
「天下静謐」を実現し、公家や寺社の紛争を解決するのは将軍の役割であり、光秀はその現場担当者としての役割を期待されていたのである。
だが、元亀4年(天正元年:1573)に義昭が京都から没落した後も、光秀は信長の元で同じ役割を担う事になった。
将軍が不在となった状況で、信長が義昭に替わる新たな「天下人(中央政権の主宰者)」として、公家や寺社を保護する役割を引き継いだ為であり、光秀が信長から篤い信頼を得ていた事が窺える。

近江滋賀郡の領主となる

安土城にも匹敵した坂本城

武将として躍進した光秀は、滋賀郡の領主としても多忙な日々を送る。
元亀3年12月に落城した坂本城は、宣教師ルイス・フロイス(1532〜97)から「安土城にも匹敵する名城」と絶賛されている。
また、天正3年(1575)頃に高島郡打下(滋賀県高島市)と滋賀郡小松(滋賀県大津市)が境界をめぐって争った際には、光秀が裁定を下し、それでも解決しない場合は、信長の判断を仰ぐ事を通達している。

領主として独力で領地を支配していた

光秀をはじめとした信長配下の重臣たちは、各自で独自に領地を支配していた。
光秀は織田政権の「譜代大名」として、信長から一定の地域の支配を任されていたのだ。


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