秀吉と姫路城

秀吉に天下への道を約束した姫路城

中国大返しで姫路が秀吉の兵站をつないだ

姫路城は14世紀半ばに造られたが、黒田官兵衛が秀吉に献上し、姫路城が秀吉にとって天下への足掛かりとなった。
姫路城を拠点にできたことで、秀吉は中国全体での作戦において多大なる利益を受けた。
さらに、歴史の転換となった「中国大返し」では、西国交通の要衝・姫路がその輸送路が秀吉の兵站を潤わせた。

姫路城は経済的にも大きな役割を果たす。

秀吉は中国地方への出兵で苦しんでいた

長い兵站を支えてくれる城が欲しい…

天正8年(1580)、約1年10か月という長い籠城戦ののち、播磨国の三木城が開城した。
織田信長より西方の毛利攻めを任されていた羽柴秀吉にとって、その道中である播磨での予想を遥かに越えた長い足踏みは、とてつもない苦痛であったことであろう。

最初は三木城に目を付けた秀吉

別所氏を滅ぼした後、秀吉は三木城を、播磨における拠点として活用しようと考えていた。
三木合戦後の荒廃した城下を早期に復興すべく、借金や年貢を免除する制札や乱暴行為を禁じる制札を掲げることで、人心掌握に努めたことが今に伝わっている。

黒田官兵衛の居城だった姫路城

しかし秀吉に仕えた播磨の土豪・黒田官兵衛は、秀吉に三木城ではなく自身の居城である姫路城に入るよう提言をした。それは羽柴秀吉という男に将来を賭けた官兵衛の、覚悟の表れとして知られるエピソードであるが、姫路という場所は、地政学的にも非常に重要な位置にあり、また今後の秀吉の命運を握る重要な拠点となったのである。

姫路城は、地政学的に重要な位置にある

経済的にも大きな役割を果たす

姫路は、古くから肥沃な平野部を有し、山陽道や因幡・但馬街道の分岐点として交通の要衝として知られる。
奈良時代には播磨国府がおかれると、播磨地域の中心都市として発達してきた。

14世紀半ばに造られた姫路城

最初は「姫山城」と呼ばれた

姫路城は、正平元年(1346)、赤松則村(円心)の次男、貞範が、標高50メートルほどの姫山に、砦レベルの城を築いたのが最初とされる。
それ以前は、赤松則村が姫山山上の寺に城柵を築いた程度のものであった。
なお、この時点での城の名称は姫山城である。

動乱の中、何度も主が変わる

嘉吉元年(1441)、赤松満祐が嘉吉の乱で6代将軍足利義教を謀殺した折(将軍暗殺で室町幕府の衰退が始まる)、城は山名持豊に奪われてしまう。
応仁元年(1467)に応仁の乱が起こると赤松政則が姫山城を奪取し、領土を取り戻している。
その後は赤松氏の支族である小寺氏が城主となる。

黒田重隆が姫山城に入る

後に小寺氏が御着城を築いて移り住むと、姫山城は御着城の支城となり、黒田重隆が姫山城に城代として入城している。

黒田官兵衛(姫路)が織田に臣従

黒田重隆の孫、官兵衛の時代になると、織田信長の家臣として、羽柴秀吉が中国攻略の方面軍司令官として播磨に入る。
官兵衛は織田家の勢力を見て、これに味方することに決し、この後は秀吉の家臣として全国平定に奔走する。

官兵衛の采配で姫路が秀吉を救うことに

軍事・経済の両面で要衝だった姫路

官兵衛が秀吉に譲り渡した姫路の地は、海岸線が近く、経済・文化だけでなく、軍事的な拠点としての利用が容易であった。
なお、官兵衛が姫路城から移った国府山城があるあたりは、当時の海岸線であったことから、官兵衛自らが姫路城の水際での防衛拠点としての役割も担うつもりだったのであろう。
また、北方に視線を移すと、三木合戦中に手中に収めた生野の銀山がある。 生野から姫路へ但馬街道を通じて物資の輸送が頻繁に行われていたことは容易に想像できる。

本能寺の変、秀吉が孤立し危機に

そうした重要な経済拠点たる姫路が秀吉の一大転機を支えることとなったのが、本能寺の変の後の「中国大返し」である。

歴史の転換となった「中国大返し」

素早く補給路(支城)を用意

備中高松城攻めで毛利と和睦を成立させた秀吉は、2万の軍勢を大急ぎで畿内に向けて引き返した。
一旦、備前沼城で休憩をとると、姫路で補給を手早くすませ、さらに決戦の地へと「鬼神のごとく」行軍を続けたのである。

交通の要衝・姫路が秀吉への補給を支えた

これを可能たらしめた姫路の兵站基地としての補給能力は驚嘆に値するものであり、それは官兵衛の采配によるものであろう。
この強行軍によって秀吉は一気に天下人としての階段を駆け上がることとなったのである。

交通の要衝ゆえ、城下町として発展する

その後も姫路は西国街道の宿場町として、城下町として大いに繁栄を続けていったのである。


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