備中高松城の戦い

備中高松城の戦い

備中高松城の戦いは、1582年に織田信長の命を受けた羽柴秀吉が“中国攻め”において、毛利方清水宗治の居城である備中(岡山県)の高松城を攻撃した戦い。
秀吉が高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻めとも呼ばれる。
水攻めの最中に主君・信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が勃発する。
その報を聞いた秀吉は毛利方と和睦、宗治の切腹を見届けてから、光秀を討つ為に京都へ引き返した。

『赤松之城水責之図』東京都立中央図書館所蔵

『赤松之城水責之図』東京都立中央図書館所蔵
一勇斎国芳画「赤松之城水責之図」3枚揃大判錦絵
江戸時代の錦絵図で、高松城が赤松城として記されている

水攻めの概要

堤防の建設
高松城に着陣した秀吉軍は、水攻めにする為、高松城の周囲に堤防を築いた。
堤防はわずか12日で完成したといわれる。
高松城はもともとが水没しやすい地形であった為、堤防は全て囲んだのではなく、一部分だけであったとも云われる。
水攻めの開始
足守川の流れをp引き込んで、高松城周辺を水没させた。
高松城は孤立無援となり、援軍として駆け付けた吉川元春軍は手を出せなかった。
高松城周辺の洪水時と平時

1985年の洪水で水没した時と平常時(1999年)のようす
秀吉の水攻め時の状況もこのような様子であったと思われる
写真:林辰夫氏、高松城公園資料館

長大な堤防を12日で築く

堅牢な備中高松城

三木城を「干殺し」で、鳥取城を「渇え殺し」で落とした羽柴秀吉は、1582年3月、毛利軍の最前線・備中高松城攻めを開始した。
しかし、高松城は周囲に7つもの支城を従えているうえに、5000人もの兵が城の守りを固めている。
正面から攻め込んでも兵を消耗するばかりと考えた秀吉は、奇策を講じた。

地形を駆使して“水攻め”を実現した秀吉

低湿地帯に築かれた城で、足守川を天然の堀代わりにしている。
秀吉は、数千の人夫を動員し、わずか12日間で全長3qに及ぶ長い堤防を築き、足守川の水を堰き止めたのだ。
折しも季節は梅雨で川の水かさが増している。
川の水を堤内に引き入れると、城は徐々に水没していった。
秀吉は高松城の地形を逆手に取ったのだ。

高松城水攻めの様子を描いた錦絵

高松城水攻めの様子を描いた錦絵

水攻めの前に成す術がなかった毛利軍

秀吉の水攻めが完了した後、毛利輝元を総大将とする約4万人の毛利の援軍が駆け付ける。
しかし、水没していく城を見せ付けられた輝元には、秀吉との講和しか残された道はなかった。

本能寺の変が勃発

だが高松城を攻めている秀吉の下に、主君・織田信長が、京の本能寺で明智光秀に討たれたという報せが届けられた。
講和の条件として高松城主・清水宗治を切腹させると、秀吉は軍勢を率いて京へと向かった。
世にいう「中国大返し」である。

清水宗治

宗治は毛利家の家臣ではない地方領主だったが、籠城兵の命と引き換えに自害を決意。
湖に小舟を浮かべ、両軍が見守る中で切腹した。
切腹の前に宗治は舞を踊り「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句を残している。

清水宗治の錦絵(落合芳幾)

清水宗治の錦絵(落合芳幾)

戦いの後の情勢

秀吉は光秀を山崎の戦いで破り、信長の実質的な後継者の道を歩む。
秀吉の実力を良く知る毛利氏は秀吉との和睦を維持し、その覇業を支援した。
後に豊臣政権の五大老が定まると、輝元と隆景はその一員となっている。


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