備中高松城の戦いは、1582年に織田信長の命を受けた羽柴秀吉が“中国攻め”において、毛利方の清水宗治の居城である備中(岡山県)の高松城を攻撃した戦い。
秀吉が高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻めとも呼ばれる。
水攻めの最中に主君・信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が勃発する。
その報を聞いた秀吉は毛利方と和睦、宗治の切腹を見届けてから、光秀を討つ為に京都へ引き返した。
三木城を「干殺し」で、鳥取城を「渇え殺し」で落とした羽柴秀吉は、1582年3月、毛利軍の最前線・備中高松城攻めを開始した。
しかし、高松城は周囲に7つもの支城を従えているうえに、5000人もの兵が城の守りを固めている。
正面から攻め込んでも兵を消耗するばかりと考えた秀吉は、奇策を講じた。
低湿地帯に築かれた城で、足守川を天然の堀代わりにしている。
秀吉は、数千の人夫を動員し、わずか12日間で全長3qに及ぶ長い堤防を築き、足守川の水を堰き止めたのだ。
折しも季節は梅雨で川の水かさが増している。
川の水を堤内に引き入れると、城は徐々に水没していった。
秀吉は高松城の地形を逆手に取ったのだ。
秀吉の水攻めが完了した後、毛利輝元を総大将とする約4万人の毛利の援軍が駆け付ける。
しかし、水没していく城を見せ付けられた輝元には、秀吉との講和しか残された道はなかった。
だが高松城を攻めている秀吉の下に、主君・織田信長が、京の本能寺で明智光秀に討たれたという報せが届けられた。
講和の条件として高松城主・清水宗治を切腹させると、秀吉は軍勢を率いて京へと向かった。
世にいう「中国大返し」である。
宗治は毛利家の家臣ではない地方領主だったが、籠城兵の命と引き換えに自害を決意。
湖に小舟を浮かべ、両軍が見守る中で切腹した。
切腹の前に宗治は舞を踊り「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句を残している。
秀吉は光秀を山崎の戦いで破り、信長の実質的な後継者の道を歩む。
秀吉の実力を良く知る毛利氏は秀吉との和睦を維持し、その覇業を支援した。
後に豊臣政権の五大老が定まると、輝元と隆景はその一員となっている。